2023-11-03

再編

「HECHO A MANO」と記され、この地域の風物詩とも言えるモチーフをあしらった「手作り」カードは、40年前に送り主が結婚式を挙げたボリビアで購入したという。添えられたメッセージは今に続く時間に深みを与える。彼女のフィアンセが当時勤務していた富士山と同じ標高の街、首都ラパスでの高山病も若い頃の思い出として綴られる。ご主人の仕事柄海外での暮らしが長いだけでなく、彼女自身も語学を専門として勉強したこともあってか、英語以外の第二外国語をしっかり勉強した方々に共通する語彙の豊かさと確かさはもちろん、時と所によっては短い会話だからこそのリズム感や韻のセンスは気持ちを弾ませる。あるとき、何の会話の流れだったのか忘れてしまったが、彼女が家人に対し「骨が美しい」と言ったことがあった。とある国では骨の優劣が結婚相手の決め手だとかいうまことしやかな話が落ちだったように記憶しているのだが、別のところでは「歯がきれい」と言われたこともあった。振り返ってみて、いまさらながら上等な誉め言葉としてありがたく受け止める。また、学校での家人の素行に大変苦労をしただろう亡き義母からの唯一の誉め言葉である「口がきれい」。母曰く、おなかいっぱいでもつい目がほしくなる私たちと違って欲しがらないという意味での「口がきれい」。要するに骨と歯が丈夫で、食べ過ぎることのない極めて健康体ということだ。ついでに、身近にいて健やかさを称えたくなるのは、国内外問わず食事で出されたものは何であってもえり好みすることなく食すほどの礼儀正しさを持ち合わせているところだ。私にとって、少食でも過食でもなく、美食や偏食でもない家人のこの普通さは、「食」に携わる者に対し信をおく重要な点でもある。

今晩の来客は歯医者で家人の口腔内のみならず、健やかさを持て余していた頃の、好奇心旺盛と言えば聞こえはよいが、煙草や酒、ディスコ通いなどのもろもろで謹慎処分を喰らった真相を知る中高男子校時代の同級生。語り手を変えての思い出話は、違う角度から光が当てられ、またひとつ物語がうまれ変わる。これまでをほどいて、カード上のミニチュアのchuluのように細部までを精巧に編みなおすかのように耳を傾ける。


2023-10-12

終の棲家

若い頃の葛藤を経て観念し受け入れていること、雪に閉ざされいっけん退屈そうな長い冬を今ではむしろ親しんでいられるのは時の経過によってもたらされた贈り物のようなものである。冬ごもりの醍醐味を知るずっと前の、移住して間もない頃、二重生活をするために本州の転居先を検討したことがあった。あれからずっと後、お互いの片親の他界、残る親の老化や介護、そして自分たちの行く末を考えたことをきっかけに、現実味をもって転移のために話を詰めたこともある。自然環境が豊かな場所にポツンと立つその建物は、平屋で広すぎず狭すぎず私たちの希望と合致した。ただっ広い農地の中に移築して建てられたという築100年ほどの古民家で、配置と間取り、外壁、灯篭、建具、照明、沓脱石、調度品はもちろん、コンセントの位置なども含め細部にまで持ち主のこだわりと愛情のようなものが伝わってくる住まいだった。問題は広い農地も合わせて購入しなければならないという、資金の調達もさることながら農業委員会の審議を経ての複雑な手続きの壁が立ちはだかった。日本の土地(農地)が無規制の、又はゆるい規制の隙間をぬっていとも簡単に外資に買い占められている状況下にあっては、出来ればもちろん農地もまるごと購入したいとの思いは募る。熱に浮かされたように、農業を営む従兄弟に電話をして制度の仕組みの教示、農人としての心構えから備えまでもろもろの意見や助言をもらい、その古民家の持ち主の方とも直接やりとりをさせて頂いた。結局、断念しざるを得なかったものの数回にわたるその持ち主さんとのやり取りは忘れがたいものとなった。断念後しばらくして持ち主さんが言われた。「手放さないことにしました、いつかお近くに来られたときには見学がてらどうぞお立ち寄りください」。その住まいが私たちや他の誰でもなく、持ち主さんによって引き続き住まわれることが分かって、なぜかとても安堵した。



痛みの頻度が増し、いよいよ体の不自由度が大きくなってきた老女の2階の寝床を1階に拵えるのに、荷物や家財道具を移動しながら古民家のそんなできごとを思い出していた。埃が被るいちいちに彼女の歩んできた軌跡を思い、それらへの愛着の濃度は彼女の孤独の深さを思わせた。トイレに近く、暖かく就寝する場所を作り終えた頃には辺りはすっかり暗くなっていた。15歳の時に他界したお母さんの形見であるという足踏みミシン、年が近く一番仲良しで、不慮の事故で亡くなった兄貴の形見だという木のテーブルを埃と物々から救い出し、磨いてベッドから彼女の目に届くどこかにうまく配置できないものか、次回の課題とすることにした。


2023-09-07

植物劇場

画集を眺めていて、ミュンヘンのある市立美術館が蔵している「植物劇場」というタイトルの作品を見た家人は、本物を見てみたいと感嘆の声を漏らした。日本画、西洋画問わず美術に関して歴史、作家、作品についての詳細をほとんど知らず、また絵を描くことにおいて何をどうすればよいものか取っかかりさえ思いつかない身だからなのか、家人のそんな独り言を流さず拾って、今すぐにドイツには行けなくても、春から夏にかけて開催していたマティス展のように今後作品の方が日本にやってくることがあるかもしれないから、そのときには機会を逃さず足を運んでみてはどうか促しながら気持ちを温める。美術の世界において語られる「美」とは別次元の、思わずこころが惹かれ目の前の絵を見つめ対峙する側の一瞬の横顔、無心の姿は美しい。

食用を目的とした果樹や蔬菜の生産園芸よりも、なぜか自然の風景に溶け込んだ草花の園芸を好む質であることに加え、隠花植物をも好む傾向にあるからなのか、絵画においてもモチーフが植物で色合いがくすんだ作品であればあるほど惹かれる。庭に生えた植物を移植し囲って作った小さなガーデンを家人が模写した頃から少し時間が経って頬を撫でる風がひんやりし始めた。目前の我が家の植物劇場の登場人物たちもそれぞれに色を褪せはじめた。いつの日にか、上手に枯らし、うまく取り扱えるようになってから、美留和で共に過ごした時間の堆積と命の証である押し花や押し草として思い出を閉じ込め、採取した日時と場所、天候のみを記した小さな個人的なアルバムを作成してみたい。