2026-03-05
二つの背中を追って
「世界のトップ二%科学者リスト」なるものに恩師の名があることを同じ大学、学部卒の妹が教えてくれたのは先月のことだった。LINEやSNSに疎い姉のために時々速報を流してくれる。入学オリエンテーション時のチューターだった縁で、あとになって知ることになるのだが「薬学部一しんどい研究室」とまことしやかに噂されていたらしい先生の部屋に大学2年の後期から通うことになった。当時はまだ有機化学合成や抽出が研究の花形だった薬学部では珍しくある病原菌微生物を扱う研究室で、国内向けのジャーナルではなく英語で論文を書いて投稿されており、既に各国から研究論文に関する問い合わせはあった。先生率いる部屋の雰囲気に惹かれ所属することになった私は先生の功績や研究の価値には無頓着で、実験合間のお茶休憩、休日のテニスなど先生と過ごす時間が楽しい学生だった。主要ジャーナルに論文が採用されたとき、または科研費が降りたときなどにはポケットマネーで皆にケーキをご馳走して下さった。「よく学びよく遊べ」をモットーに40代の先生は20代の生意気で未熟な私たちを相手に出来の良し悪し関係なくとことん付き合って下さった。また、研究ばかりではなく教員や学生の質の底上げにつながる薬学教育の改革はもとより、今で言うセクハラやパワハラで悩む部屋以外の学生の力にもなって下さっていた。結婚時の短所も知る先生からの、とりわけ私に向けての祝辞も忘れられないが、宿を開業して十数年たった頃に助手さんと美留和に来てくださったとき「10年やれたのだったら(宿業を)もう大丈夫ですよ」の先生の一言に安堵しこころを強くしたことを思い出す。退官される時の最終講義に参加した時にお会いして以来先生とは賀状だけの交流になっているものの、変わらず感じられる先生らしさに気持ちを暖かくする。今年は以下の通り、80歳台も中盤に差し掛かりましたが、気分はいまだ60代です。健康維持のため、若い中年のおばさん達とテニス(週2回)、毎朝の筋トレ、ウォーキング(週2回)に頑張っています。そして、いつも「目が覚めた、しめた喜べ、生きている」と言うポジティブシンキングで生活しています。一方、これらの努力は、頭髪の保持や人名の記憶には全く効果なく、さらに、2年前のペットロスからの卒業も出来ていませんが、今年は、これらの問題を1つでも解決すべく頑張ろうと意気込む新年です、とある。
もう一人の師は、大人になってから文科系の大学で出会ったこともあり、前記の師父のような近しさはない。標として緊張感ある関係性の師である。先日、又しても中東で繰り広げられている物騒なニュースに耳を汚したまま、きりかわった芸術選奨文部科学大臣賞のニュースの文学部門で先生の名前を拾った。新作には大衆食堂を舞台に、訪れる人々の交流がさまざまに描かれるのだが、ある登場人物が戦争の記憶を思い巡らす描写が挟まれる。過去の出来事が現在の今に刻み直され記憶があらためて引き継がれる。くしくも約20年前の別の著作の刊行時にも理由は曖昧なまま2度目の破壊工作が繰り広げられていたのも中東だった。何度同じ愚行を繰り返すのだろう。戦争も平和も主権も条約も何もかも、生存全体が行き過ぎたグローバル化(金融経済資本主義)に呑まれると破壊され尽くし消散する。傷口をさらに深くして後世に負の遺産を残す。中東で起こっていることは対岸の火事ではない。まさかこの国も再び特措法などをこしらえ加担するような無謀なインチキをやるようなことはもうないはず、と思いたい。淡雪の曇天つづきのなか鬱々とした気分を抱えて過ごす。



2026-02-03
静思 ー 5月から2月
時間がかかってもキーボードではなく肉筆で気持ちを整理した方が良い状況である旨を前書きした友人からの手紙を受け取ったのは道東もようやく新緑に勢いが増す頃だった。見慣れた彼女の肉筆の字面と文体は変わらず静寂の方へ私を向かわせる一方、私は混乱もしていた。手紙には地元で暮らす彼女の妹に起こったことが書かれていた。仕事や余暇の日頃の疲労には収まらなくなった体調不良と左眼球の白濁と異常に家族が気づき救急搬送された。到着した先の基幹病院では体の炎症反応を示す値が高いことは分かったものの眼科対応不可で転院、次の大学病院に着くとすぐにECMOを装着し敗血症ショックと激症型心筋炎からの高炎症反応を抑える処置が施される数日中に進行性の難病、壊死性筋膜炎であることが発覚した。心肺機能低下に連動する腎機能低下のための人工透析も行われた。両脚での歩行機能を残すべく壊死した筋肉と腱のみを切除する手術が試みられた。左側は骨と血管と神経をのみ残し筋と腱を全て切除してもなお、さらなる壊死の危険性が排除できないため、後日膝上で切断することになった。左目の視力は戻らないことがわかった。筋肉細胞の壊死は食い止めることができ今のところ両手、腕、脳には問題がなく、手と脳が無事ならなんとでもなるとの見解を家族で共有していること、姉として願うことは術後の痛みや幻肢痛を適切にコントロールし、本人が起こった状況を把握し受け入れて必要に応じ早期から精神科連帯を行い、リハビリに挑み、いい義足やいい車椅子を使いこなせるようになり愛犬や里親保護猫たちを愛でて暮らすという、この時点で妹の状況を鑑みた上での希望が鮮明に思い描かれていた。今度の災難を本人も家族も誰も何一つ納得できはしないけれど、各自各々に受容しているとも記されていた。急激で厳しい展開に驚き心痛の中にいるだろう私にまで心を砕き言葉を添えてくれてもいた。その後しばらくしてICUから一般病棟に移り右足だけでスクワットすることを目標にリハビリを開始したこと、さらに続き自宅近くの病院に転院しストイックなリハビリの効果で着実に体の自由が増えているとの知らせが届いた。そして直近では、10月下旬に退院、11月中旬からは復職を果たしたこと、なんとこの2月には義足、片眼に対応する運転可能な車が納車されるという知らせが届いた。
10代の終わりに友人と出会い、話をし手紙やメールで言葉を交わし続け、途中交わす頻度の濃淡はあるものの、互いに交わしてきた言葉はほぼ40年の時間の中で自ずと刻み磨かれいつしか固有のテクストが象られてきたように思う。信頼や愛と言う言葉に置き換えるまでもなく、疑似餌などではない、身体と素直に繋がる澱みない言葉が歳月を経て内面に形成された標のようなものだ。その織物は質が担保され網目が端正だ。思わぬ災難や窮地のときばかりでなく、これから老齢に入ってゆく普段の暮らしの中において死生観を思い問うようなとき、刻々と今も時が重なり紡ぎ紡がれるテクストを私はこの先何度も広げ確かめることだろうと思う。



2026-01-04
丙午賀状ダービー
友人が撮影した馬は新年の祝賀を引っ提げて発走した(発送された)。馬事公苑の競技場の柵を軽々と乗り越え、集配局と配達局の関門もさらりすり抜け誰よりも先にぶっちぎりの一番着で、クリスマス前にはゴールした。北海道生まれの、父や姉に劣らぬ成績をあげられるよう念じ命名されたのであろう、バルカン半島の岩に自生するユリの名を冠した弟馬は競走馬から競技馬に転身した。右前足の屈腱炎は幸いにもテンポイントやディープインパクトなどと同様の運命を辿らずにすみ、今では闘争心をまるで自身に向け抑制の効いた技を披露する馬となって優雅に戯れる。生きるのに条件や制限から完全に自由になることは不可能であっても企てや意味、そういった余計なものが剥がされたときに自由が活きてくるように、血統を背負った「Syringa Vulgaris」という名前が次第に薄れて消え、できれば故郷の雄大な草原にて、思うがままに駆けゆく馬の姿を思い描く。


