2025-12-03
Overflowing
帰省すると通学路だった道を歩く。目線はあの頃より高くなっているとはいえ、色あせ古びた道路の道幅や橋の欄干の大きさが小さく低くなり町全体が形よく縮小されたミニチュアに見えてしまう。思っていたほど家との往復路も遠くない。子供の頃に刻まれた身体感覚の齟齬は、老齢の母の姿かたちに対しても同様で里帰りするたび是正を求められる。逆に、母校の校庭のシンボルでもある2本の樹木はますます大きく存在する。教育勅語発布5年後に新しく作られたという校歌、桑の葉と繭をあしらったデザインの校章も同じまま創立167年、今では県内最古の小学校になった校庭のセンダンの木は明治時代の親たちが、子供たちの学びや成長に願いを込めて当時の校庭にはよく植樹したということだから、縁起のよいクスの木も便乗して植えられたのか、もともと生えていてそのまま残されたのかはわからない。わざわざ巨木信仰を持ち出さなくても、空に聳える大木の風景は圧巻だ。私が卒業してからでも既に半世紀近く、それよりもずいぶんと前からこの地に根ざし生命力を放つその姿は風土、風景、人、時の移り変わりまで全てを抱く。
本州では柿の生り年だったらしいが、実家の庭で収穫した渋柿を美留和にて吊るし柿にしてみた。柔らかいものは柿酢用に殺菌した瓶に詰めて仕込んだ。祖父母の家の、縁の下があって、沓脱石が置かれた縁側の軒下に吊るされていた風物詩、牛と干し草の匂い、鶏や鳥の鳴き声、五右衛門風呂の薪や堀炬燵の炭の匂いと温もり、里山盆地の恐ろしく底冷えする寒さも今となっては懐かしい。家族総出の大掃除に始まり、餅つきは餅米を蒸すために薪でお湯を沸かすところから、年越しそばは蕎麦を挽くところから、お節の煮物は鶏を絞めるところから始めていたわけで、また素材の米も蕎麦も鶏も育てていたわけだから、よっぽど物事に対する段取りが行き届くよう整え用意することを常とする暮らしぶりだったであろうことが伺える。祖母が手作りした米粉の菓子と濁酒を氏神さまにお供えするために手を引かれ裏山を登って歩いたことは、後にも先にも1回きりの幻のような光景、この時季になると追想する。



2025-11-03
照葉
肌に触れる空気の湿度と温度、あたりの色や音が入れ替わった。陽光が部屋の奥まで届くようになり、大気の透明度は増した。空には羊雲、うろこ雲、鳥の羽のような巻雲、そこに絵の具を落としたような彩雲が現われる。三日月や星々は夜空にいっそう鮮明に映る。庭に敷き詰められた赤、茶、黄色やオレンジの葉は土に還っていく準備を始める。寝具、リネン類だけでなく車のタイヤ交換を済ませ、それから冬に時間をかけて読み進めたい本の準備にとりかかる。少し先の世代の著書だったり絶版になっていれば古書店から可能な限り初版を求める。新古関係なく本体や外箱をグラフィン紙で保護し何かしら大切なものを扱うような気配のある本屋を介しての本との出逢いはたまらず、大人になってから学びなおした大学で同じ師に薫陶をうけた友人と連絡を取り合う。大学の専門演習で机を並べることのあった私たち三人はキャンパスから近くのファミレスに移動して食べて飲んでよくおしゃべりをした。文藝に関する止むことのないおしゃべりは「終電」によって次から次へと持ち越された。仕事や暮らし方、生き方、その時々の迷い、疑念、修正、更新などを含むすべてはそのときに勉強し分かち合ったことの延長線上にある。時と所、立場は違えど人生のある通過点で偶然にも出会い、言葉、音楽、絵画から暴力、宗教、自然観までを内包する文藝に関わる小さな驚きや気づきを、いつからでも、どこからでも思い立ったとき再開し共有していられることはうれしい。古書店にしても私たちのこんなアナログ的な関わりあいにしても、なんとなく少しずつ古び失われて自然なかたちでいつかは消えていくにしても、旅愁や郷愁にも似たそんなノスタルジックな思いがぽっかりした今を満たしもする。かつて、一人残された学校の教室の放課後での帰り支度の心許なさに比べれば人生の冬支度はずっと大丈夫なはずだ。



2025-10-05
音景
「コウフクノスズノネ」と私たちが呼ぶその鈴音は、起きてすぐの家事がひと段落して一服するころの時間帯に聞こえてくる朝の音の風景。だんだんと音が近づいてきてタイミングが合うと私たちは外に出て、熊よけの鈴の主とともにやってくる豆柴のロコに挨拶をする。家人は挨拶だけにとどまらず頭や顔を撫でる。吠えることはしないが警戒心と節度をもつロコは人間に付き合う。主従の関係がない家人と欣喜雀躍する。なぜかここ最近、友人知人の犬の話題が集まった。ハル、カゼ、タロ、ジロ、コロ、勘助。亡くなった老犬もいる。野生の狼から手なずけ作り上げた犬と人間の関係性は動物の境界線を越えて人間化や社会化に与する犬によるところが大きい。主人の行動のひとつひとつに意味を見出そうとする犬たちの邪気ないピュアなまなざしは単に無邪気なだけではない。彼らの日常は泰然自若が持ち味の猫たちとは違い常に緊張に満ちている。また、人間が悲しみのなかにあるとき、絶望にうちひしがれるときには近寄ってきて涙を流しもする。保護犬だったロコは4年ほど前に九州から飛行機に乗って今の飼い主のところにやってきた。主人と信じて疑わない飼い主から捨てられたときの犬の存在そのものの寄る辺のなさはいたたまれない。だからか余計に、拾われて今の主人に愛情をかけてもらい、再び人間との信頼関係を取り戻せた犬の幸運に感動を覚える。秋風にゆれる鈴音はまた幸せな時をともに過ごした同伴者なきあとの知人の恢復の時の音としても響く。


