2022-05-10

土の匂い、鳥の声、水の音

遠くの山並みの風景に薄桃が加わった。色、香、音が次々に春を映す。この時季の陽気は特に私たちを外に誘う。湧き水を汲みに。土を触りに。花の水やりに。まだカッコウの鳴き声は聞かれないものの、夏が短い美留和のこと、早速、家の中に置いておくプランターに種まきをする。ズッキーニ、キャベツ、ミニトマト、バジル。ニンジンはもっと暖かくなってから直播。美留和の腐葉土と取り寄せた固定種との相性やその他環境条件などによって、今年どの程度発芽し、育つものなのか分からないけれども、色んなことを思い巡らせてくれる「土と種」に理由もなく惹きつけられる。

ご近所さんが庭の辛夷が咲いていることを知らせて下さった。花開くその瞬間に立ち会いたいと、今朝もまだ固い蕾を確認したのは数時間前だったにもかかわらず、こちらもあっさりとお昼前の陽気に誘われてしまったようだ。


2022-04-03

Ode to Joy

序曲として奏でられた静かで愁いを帯びるその曲調に息を呑んだ。暫くぶりの生演奏の鑑賞であることもさながら、普段耳に馴染んだ歓喜の歌とは異質なそのメロディーに不意をつかれた。札饗のタクトを振る機会がたびたびあるその指揮者によって創られていく空気に、お一人お一人がプロの演奏家である各々の音が融けあう。そこにアーティストの詩歌が重なり協奏曲のような世界が現れる。アーティストの、北海道で生まれ育ったことの何かしらかが影響を及ぼさないはずはないであろうパフォーマンスと天性の歌声の対象は、音楽の神様がいるとするならば、そんな大きくて深く優しいものに向けられているように思えた。言葉がとがらずに絶妙な間合いで音符に乗せられ響く。意味を飛び越えた音楽家たちの内面の動きに呼応するかのようにこころを震わす。現在進行形で楽曲が象られていく流れの中に居合わせた一期一会を記憶の中で再現するとき音と共に過去が今に融けあう。


2022-03-04

巡り巡って

「ぐずぐずしなさんな。さっさとせんね(早くおやりなさいな)」迎えに来た母に追い立てられ、墨で手や服を汚してさらに叱られることのないよう張り詰めて片付けをしているときに「ひーちゃんは丁寧なんだよね」と習字の先生は言われた。幼少の私は言葉にはできなかったものの、ものごとには両側面があることを、対象をとらえるときの立ち位置で見え方が大きく違うことを知ることになった原初の体験だったように思う。久しぶりに南国に帰った4年前の秋、わざわざ車通りの少ない裏道を歩いて実家に向かっているとき手押し車の老女とすれ違った。田舎ではよくあることですれ違いざまに会釈したり挨拶を交わすのだが、その老女の声に反応し思わず顔を見合わせたというのが先生との40数年ぶりの再会だった。先生が弟や妹のことまで覚えていて下さったりして一瞬にして故郷に戻ってきたことの実感が増した。確かその時に再会の喜びに感謝とご自愛なさるよう記した葉書を出していた。この冬、1枚の寒中見舞いを受け取った。それは4年越しの、肉筆での先生からの返信だった。骨格の流麗さはそのまま、しかしご高齢による肉体の不自由さや先生の思いが震えとなって文字に現れていた。味わい深く感動的で、いつか「敬天愛人」を草書で書いてみたいこと、叶うならば先生の草書の臨書をしたい思いを葉書に乗せ再び投函した。思いは私から離れ巡り、きっとまた形を変え巡り戻ってくる。
つい先日、美しい名前の持ち主から椿の絵柄の封筒が届いた。それは16年前に会ったきり、当時はまだ低学年だった少女からの手紙だった。