2026-09-06

題詠は電話

固定電話のあるダイニングへ一歩ずつ足を運ぶ年寄りを煽るような呼び出し音に受話器を握るこちらの手に力が入る。義父の八百屋や寿司屋さながらの威勢よさと凄みの混じる第一声「はーい!」に緊張はピークになって一気に弛む。腰痛が和らぐから赤ん坊のように丸まって寝てます、しゃんねーよ、齢が齢だからなー、と畳み掛ける声に元気でうれしいと応えると、なに、お前そんなことでうれしいの、のやりとりもいつものことだ。家人に子供の頃の義父との思い出を尋ねてみると三つあげた。5~6才の頃、父が縄でぐるぐる巻きにした棒を庭に立て、それを標的に殴る練習を強いた。しかし痛いし興味ないわで長くは続かなかった。二つ目は滑りの悪いお勝手の小窓を力任せに扱いガラスを割ってしまったとき、その箇所をお母さんが新聞紙で応急処置していたところに帰ってきた父はいきなり息子を殴った。三つ目は父にメロンを食べるかどうか尋ねられたときの受け答えの態度が悪かったらしく、手足を縛られ江戸川の河川敷に捨てられた、のだそうだ。私の頭の中は一瞬にして真っ白になり、心に傷を負わなかったのか?やその後の親子関係に問題はなかったのか?など疑問符でいっぱいになった。しかし、どうやらかげやま家ではそんな心配は何のその、後腐れも何もなく、父を恨むことも恐れることも自身に劣等感を抱くこともまったく微塵もなかったのだと言う。少年たちが主人公の物語の描写に、会えばいきなり相手の頭をぶって、たちまち取っ組み合いの喧嘩を始めたかと思うと、それで余計仲良くなるような男の子たちの世界に通じる秘密があるのか、少女たちが主人公の物語の女子の友情のように多くの会話から育つのとは違う回路があるのか。星飛雄馬を思い出してもみたが疑問符は薄まるわけではなく私はしばらくポカーンとしていた。

国民学校の児童だった義父が、多くの生徒が裸足で登校、用意された足洗い場で綺麗にしてから教室にあがったこと、その洗い場は軍人さんたちも時々利用していたこと、常に腹を空かせていたことなど当時の記憶を語ってくれたことがあった。戦中、戦後占領下でのそんなキナ臭い時代の空気をもろに浴びた子供、少年時代を潜ってきた老い先短い義父への労いの気持ちをまた改める。


元気かな 父の大声 黒電話 私はライオンオラウータン / 息子


2026-08-03

ホザキシモツケの才略

原野に膝丈くらいの蝦夷松の苗木を植え整備された温泉分譲地を手に入れた30年ほど前、スコップ片手に中心部の苗木を端へ端へと追いやるように移植した。数年後ようやく建物が建った頃の周囲には熊笹、白樺、タモ、ヤナギ、イタヤカエデが自生し、若い蝦夷松の苗木と新築の建物が建築工事後の荒れた庭に妙に浮いていた。宿をオープンしたばかりのてんやわんやのさなかに、いったいどうやって時間と元気をやりくりしたのだろう、殺風景の庭のために毎夏2~3種のハーブ苗を求めて滝上、帯広、広尾に車を走らせた。草木の知識もなく後先考えることもなしに植えたものだから成長して光を遮るようになった今では、蝦夷松は伐採を要しハーブは自生の草花と共に繁茂し淘汰されて数種に、植えた草木の大半は鹿の食糧となった。アザミまで完食するようになった近年、すっかり観念し鹿よけのために紐で囲ってからは再び花や実をつけるようになった。まだ鹿の出没が少なかった頃に植樹した楓、北辛夷、ニシキギ、石楠花、さつき類は齧られようが今でも元気だ。小さな庭にこだわらなくとも見渡せば北海道はまるごとガーデンだと思う。そんな自然環境を背景に栽培種といわゆる雑草や野の花、草木が渾然一体となって景色に溶け込んだ壮大な庭園のある滝上を20数年ぶりに訪れた。仕事がすなわち喜びであり生活であり全身全霊の時をかけた人生そのものでもある『陽殖園』は71年前に当時14歳だった園主がスコップと一輪車で土を盛って山を造り、土を運んで谷を埋め、穴を掘り池を造る大がかりな土木工事とも言える作業を含め自生の樹々と草花を生かし時には品種改良をして、また時には本州の花を植え育て愛でた命の時間に少年の思いが結晶化した、未だに生成中のガーデンだ。ここには鹿よけの柵もなければ指定外来種のフランス菊も特定外来生物のオオハンゴンソウでさえ大人しい。この地域は入植が遅く厳しい条件下の開拓に敗戦後のブラジル移住政策時には新たに希望を託し土地を離れる家族もあるなか、開拓農家三代目の長男は決断を委ねられた。満州からの引き上げ者たちの不幸な話を耳にもしていた少年はこの土地に残り生きていく決心をした。親の農家を手伝いながら、山を造り始めた。信念とエゴが表裏であったとしても狂人と思われようが誰に迷惑をかけるわけでもなく少年は一人きりで黙々と土を運び続けてきたと言うのだから、血と汗と泪の庭でないはずはないけれども、やはりここは純真の思い溢れる至福の庭と呼びたい。

母の背中におぶわれた赤ん坊の武市さんが手放さなかったと言う「ホザキシモツケ」の花言葉を思い出しながら彼を見初めたこの運命の花を前にしたら『桃色吐息』の旋律が口をついて出た。今、美留和では穂咲下野が真っ盛りだ。


2026-07-04

青の邂逅

オーガニックワインに関わる仕事をしていると言う東京在住の方から今度外国人でワインの醸造家、そしてモダンアートの芸術家でもある友人を連れて行きたいとの問い合わせがあった。かげやまは地元で手に入る食材を基本とし高級食材や高級ワインに拘っていないこと、ましてや「無香料ポリシー」など大変面倒くさい制約や諸々の不便がある所以、果たしてお客様の選択に間違いがないかどうかお確かめ頂くよう留保を挟む、そんなやりとりの末の御客であった。カルフォルニア出身のアーティストは一ヶ月の滞在予定で自転車のデザインの仕事を終え帰国前に北海道を旅し、最終日にかげやまに来て下さった。もしかすると失われつつある日本文化とマナーを心得ておられる礼儀正しいふるまいは基盤に母国の紳士的な身のこなしがあるからなのか大変好ましく映った。デザインだけでなく長距離の自転車乗り、波乗り、絵描き、古物愛好…など似通う好みに家人は親しみを増した。しかし何より日本の古いモノや暮らし、しきたりにまなざしを向け大事にして下さっている様子は私自身の文化や伝統の価値に対し御座なりであることを、神話や歴史の認識の希薄さを逆に自覚させられるようでもあった。古民家で寝泊まりしながらの田植えも既に経験済みだった。北斎と岡本太郎をことさら尊敬していると豪語するアート魂はやがて彼の体に刻まれた刺青の話にまで及んだ。明治以降の、日本での刺青に対する一般的な偏見も勿論ご存知だった。左肩から背中にかけての八咫烏、白虎と芍薬、左大腿後膝横紋上部の般若はいわゆるベル藍よりも赤味がかった杜若一色で、故に際立つ繊細さと和彫りの精確さに見とれるばかりか、それらの凄艶さに身がすくんだ。八咫烏と白虎がカルフォルニアの強風下の大波に乗り躍動する背景の空と海の青、波しぶきの色がまるで『富獄三六景神奈川沖浪裏』の北斎ブルーに収斂していくようにイメージされた。田中泯に演じられた蒼い雨に濡れる北斎を、そして富士山が見渡せる広大な地で晴耕雨踏の暮らしをする演じたその人の生き方をも想起した。藝術の「藝」の字は技(技術・技能・学問)や草木を植えて育てると言う意味があるらしいが宮沢賢二は日常の暮らしや生き方そのものがもっとも尊いアートであると言ったように、この方にとってはどんな空間をもキャンバスに変え自身もモチーフの、彼がまるごと文化と技巧そして大自然に融合する作品そのものであるかのように思えた。同行の女性が実は北海道、近隣の町の出身であるが高校から北欧に行き、その後は海外にいたので地元のことはほとんど知らないと言う話から30数年前に同じ町に暮らした縁で露天風呂の周りを近所だった植木やさんにお願いした経緯を伝えると、彼女は私たちが親しくしていた友人の姪であることが判明し、通訳もしばらく吹っ飛んでしまうほど皆で驚いた。数十の巨大な岩石と敷石で構成された露天は四半世紀のうちにいつしか野生に渋さが混在する坪庭と化した。私たちの友人の弟に当たる彼女のお父さんが今でもお祖父さんの代から続く家業を運営しておられるとのことだった。
むかしこの地に来たばかりで、まだ北海道に移住することなど思いもしなかった頃のオホーツク海ブルー(藍鼠)、摩周湖ブルー(群青色)、神の子池ブルー(緑青)を初めて見たときの衝撃が浅い眠りの月闇に何度も繰り返し立ち昇った。