2025-03-01
終わりの始まり
親一人、子一人の食卓でのやりとりに水を差さぬよう、義母の定席だった義父とは向かい合う位置に黙って座る。手の震えのせいばかりではなく男性特有の排尿のトラブルから床を汚してしまったり、食事時にうまく口にスプーンを運ぶのさえも大仕事となった父は「倅に迷惑かけるなあ」「あとは倅のことだけが心配だ」と漏らす。それに対し倅は何とも言い出せない。言わせっぱなしにさせることを避けたいだけでなく、大げさに言えばこうやって面と向かって話が通じる奇跡のような時を逃してはいけないような思いが沈黙を破る。「やんちゃな倅はお父さんにずいぶん心配をかけて、その借りは返せてませんし、それに心身ともこんなに健康に育てて頂いたので、もう心配はいりません。安心して迷惑かけてもらっても大丈夫ですよ!」と伝えてみる。そうすると「親はいつまで経っても子供のことが心配なものだ」と誰にともなくつぶやく。こんな時、「親」である人たちの思いの深さに打ちのめされ返す言葉などない。美留和に移住したばかりの、親が今の私たちの年齢でまだ元気だった頃の、宿業で生計を立てるのに自分たちのことばかりで精一杯だった日々からイラク戦争を経て3.11、その後の幾多の自然災害やコロナ渦、そしてあらたな戦争で語られる言説に何とも違和感を拭えないそれらは都度、美留和での暮らし方や生き方を考えさせられ修正する契機になってきたように思えるが、同時に直面している父の老い、介護はより具体的に今の、そしてこれからの自分たちの生き方や住まい方を問う。
実家と美留和の往復のさなか、理科の先生でもある知人が雪の結晶の画像を送ってくれた。中谷宇吉郎の「雪は天からの手紙」の言葉を添えて。十二花の珍しい雪片なのだという。こんなにも小さな世界に閉じ込められた造形美に驚き、ときめく健全さを失わなければ、自分の身に起こる大抵のことは不思議と平気な気がしてくる。それにしてもミラクル、Sense Of Wonder!



2025-02-10
湧水
アイヌ語のペルワンベツが転じビルワになったのが土地の名前、美留和の由来だ。語源の意味するところは「清き泉の水が流れるところ」。中でも私たちが暮らす集落は湿地帯でその水は摩周湖の伏流水らしいことを話すと、生まれも育ちも東京のSさんがふと、そう遠くない昔のことだけれども、近所の井の頭公園もかつては水が湧いて、皆が「お茶の水」と呼んで水汲みに来てお茶を沸かしていたのだと言う。今では都心だと思っている渋谷や青山でさえかつては東京の田舎と言われていたことを思えば、短い間に信じられないほど自然の風景が変わり清き水が失われてしまったことになる。どの土地にも原初の風景があって、ここ道東は幸運にも手つかずの自然が偶然に残されているに過ぎないのだが、世界中に張り巡らされた情報網の中にあっては、保守保全したいという強い思いなしには、さらに暮らし方を間違うと速度はゆるやかであっても当然変容し失われていく。50年くらい前Sさんが学生だったころの道東に旅をしたときの話に移り、『深夜特急』のバックパッカーさながら、ヒッチハイクや徒歩、そしてJRを乗り継いでの旅は旅情に溢れ、偶然とは思えないような旅中での人たちとの出会いと縁が今に続いていた。弟子屈でのとっておきの思い出話としては摩周湖に行ったときのこと。落し物らしき封筒を拾い、中を見ると1万円が同封されていた。当時の一万円は、しかも学生の身分だったSさんにしたらひどく大金だったので警察に届けた。しばらく時間が経っても遺失主が現れずSさんに所有権が移譲されたのだが、Sさんは全部貰うことをせずに半分を弟子屈町に寄付したと言う。話はそこで終わらず、その後に当時の弟子屈町長からお礼状やカレンダー、弟子屈町の物産物諸々が届けられた、という何ともこころ暖まるエピソードに町民としてSさんにも当時の町長にも感謝の念を懐いた。情報端末の進歩によって移動間の時間の無駄や人を介した手筈のコスパの悪さなどを極力排する手段が整っている今では、そんな旅の愉しみさえも変化しつつある。Sさんの言葉によって時間が巻き戻され、南国で私がまだ学校にも行かない年嵩の頃の摩周湖や弟子屈の風景や風土はどんな様子であったのだろう・・・と今更ながら図書館から町史を借りてきて読み始めている。



2025-01-03
余命から天命に接して
Y子のお父さんが逝去された。冬至の頃の彼女の誕生日を過ぎた3日後のことだった。すぐに駆けつけることができない私に変わって実家の母がお悔やみに行ってくれた。病気療養中で一人暮らしのお父さんを彼女は行き来しながら支えていた。ふるさとの遠縁や知人の訃報に接するとき、私の中の記憶が地元を離れたときから更新されていないままであるせいか、ピントが合わない現実と疎外感がないまぜになる。6年前に突如父が亡くなったときでさえ、悲しみと後悔はずいぶん後になってから押し寄せた。実家に電話するたびに父は地元でのY子の活躍ぶりをうれしそうに語った。物怖じしがちな私とは違い、勉強も運動もできハキハキものを言える天真爛漫な子供時代のY子のままに変わらず情を注ぐようにして我が娘の如く話をした。学歴の有無や財産の有無、そして身分の高低など全く気にせず、純粋な自信に裏打ちされた明るさで四六時中機嫌よく自他と接する父についてゆけないところがあった。高校入学と同時に家を出た私は、ずいぶん長い間父のことを誤解していた。教養も語彙も豊富で社会的な責任ある肩書もあるY子は、そんな私の父をまっすぐ理解し好意的なまなざしを向けてくれていた。父の死後、彼女を介し父への誤解が溶けた部分もあったり、父とY子に共通する物事を複雑にしない良い意味での単純でストレートな素質に知らずのうちに守られていたのは私の方であるかもしれないことに、またしても自身の気づきの鈍さに愕然とする。お父さんが日に日に衰弱していかれるとき、そして天寿をまっとうされた今もなお悲しみを深くしていることだろうY子に父が生きていたら何と語りかけるのだろう、と父の声に耳をすます。


