2025-07-06

つぼ半

一学年の生徒数が数百人を超えていたらしい70年前の弟子屈中学校では園芸部に所属していた友人はとりわけ道東の動植物に造詣が深い。幼少の頃からずっと山、川、湖を遊び場にしてきた年季の入った観察眼を持つ友人を師匠と呼び慕い門前の小僧を地でいく家人はカッコウが鳴き始めるよりも随分前から畑の準備を開始していた。「育児放棄」の指摘に、言葉自体が持つ強度のせいなのか何なのか、その言葉が私に向けられてからは簡単には畑に手を出すまいと戒めてきた者にとって、畳1畳分くらいの慎ましやかな広さとお勝手口のすぐ鼻先にある場所、そこで土いじりをする家人の姿は、落ちこぼれて硬くしていた思考を緩ませる。畑のことばかりでなく、家周りのあらゆることを時々やってきては指南する師匠と並ぶ二人の姿はさらに健やかで笑みを誘う。畑のことは、カッコウのようにすっかり托卵をするつもりもオシドリの雄のように子育てを押し付けるつもりも最初から毛頭もなかったのだが、いまだに宿業や諸々で手いっぱいの育児困難のしばらくは家人に託そうと思う。今年仕込んだ梅シロップをソーダ水で割った飲み物を差し入れながら二人の蛇やカエル話に加わる。7月になったばかりの美留和でまさか、こんなに冷たい飲み物を欲するとは、子供の頃の九州の夏の午後を思い出しながら、ガリガリ齧った氷の粒をスイカの種に見立てぷっと飛ばした。


2025-06-07

つがい

ツツドリ、鶯、カッコウ、アオバト、シマエナガなど鳥たちのさえずりと互角にこの時季の人間たちの会話も弾む。お隣さんご夫婦との何気なくはじまるいつもの立ち話は身を固くしながら交わす冬季とはうって変わり動植物のことをきっかけに、色とりどりのおしゃべりに花が咲く。お隣の大きな池が静まりかえっているのは孵化期でオタマジャクシの大群が占めているせいであと2~3日もすると再びカエルの大合唱が復活することや、シジュウカラが巣箱で子育てをしている最中で可愛い様子の小鳥たち見たさに巣箱に近づこうとすると威嚇されること、クマの足跡のこと、最近見かけるようになった野生化した狸のような猫が簡単には懐かないのだとか話は尽きない。とりわけ去年始めた家庭菜園はネットで覆ったくらいでは鹿にやられてしまったので今年は大きな鳥かごで代用すべく設置するのに血だらけになったという、10代から山岳部で鍛え冬山を好み雪洞ビバークする山男の、家庭菜園においても本格的な取り組みやワイルドさに感嘆する。高校時代の同級生カップルであるお隣さんの旧友ならではの自然体に憧憬を抱き、家人を「くん」付けで呼び真似てみる。家人はふざけて私の旧姓にちゃんをつけて付き合うが、5学年の違いに加え生まれ育った場所が九州と関東ほど離れていることもあるのだろう、過ぎた時空どころか、そもそもなかった時空は埋まりようもないのだが、暖かな雰囲気にあやかる。ここ数日、明るくなり始めた早朝に必ずやってきてはガラス窓に体当たりしてくるキビタキのツガイがいる。いたずらをしているのか、遊んでいるのか、何の儀式なのかホバリングしながら交代で窓をたたくその音に先に目覚めた家人に起こされ、繰り広げられるキビタキ夫婦の不思議な朝の光景に目を見張る。


2025-05-04

巡り廻る恩恵、春にて

陽光が高くから射すようになり辺りの風景を眩しくする。福寿草とふきのとうはとうに過ぎ去り、一夜にして現れたような沢の水芭蕉の大群が幅をきかす。季節が廻ると決まって顔を出すという筍とタラの芽がお願いしていた琵琶の葉とともに実家から届いたのを皮切に、釣師猟師の友人からはそれぞれ鰊と鹿角、東海の友人からは苺、師匠と呼んで慕う地元の友人からは行者ニンニクと山わさび、年を通してハウスで栽培しているというほうれん草などの青物野菜が届けられ、頂きものでにぎやかになる。この時季特有の、行き急ぐような時の流れにうまく乗れずに重たかったお尻にスイッチが入る。筍はご近所さんにもおすそ分け、タラの芽はてんぷらに、琵琶の葉はビワの葉エキスに。鰊は三枚におろして小骨を処理して焼いて頂く用と、麹に漬けるもの用に。鹿骨は幼馴染宅の犬の歯固め用に配送、家人の木彫りのアクセントに。苺はそのまま頂き、そして新鮮なうちに大福やタルトにして友人へ。行者ニンニクは天ぷらと醤油漬けに、ほうれん草はサラダとお浸しに・・・など、待ってはくれない旬の恵みを前に手と体を動かしているうちに心身が調整されてきたそんな矢先、カヌーの誘いを頂いた。古い友人でもある水先案内人に身をあずけた船上では、目、耳、鼻、皮膚、五感が自ずと拓く。風を切りツーっと直線の跡をつけて滑るカヌーは日常を遠のかせ日頃の使い古してしまった言葉と感覚、感情さえも一掃してゆく。風に揺らめく水面の光と水音、カヌーの鳴き声とでも言おうか、水面を滑るそしてパドルが差し入れられるときの振動と水音、クマゲラ、オオジシギ、オシドリ、ワタリガラスの鳴き声、羽ばたきの姿と音。空、藻琴山と屈斜路湖、釧路川の雄大な景色の中に溶け込む私たち。下流に向かい流れゆく川の水に一刻一刻過ぎ去る時の流れが重なり、それらは二度と戻らないし戻れないことを意識させる。日常と非日常のあわいで、しかし、普段の居場所からひとつながりの歩いて来ようと思えば来ることのできる所に別世界の入り口があることにまたしてもはっとする。命が循環して次に、いやもっと輪廻したあとに生まれなおすのだとしたら、ここらの藻類のように捕食される始まりの沈水植物になりたい・・・と、こんこんと湧き出る泉、まさしく釧路川源流でのカヌーの揺蕩いは原初の生き物に還ってゆくイメージをも抱かせる。