2025-01-03
余命から天命に接して
Y子のお父さんが逝去された。冬至の頃の彼女の誕生日を過ぎた3日後のことだった。すぐに駆けつけることができない私に変わって実家の母がお悔やみに行ってくれた。病気療養中で一人暮らしのお父さんを彼女は行き来しながら支えていた。ふるさとの遠縁や知人の訃報に接するとき、私の中の記憶が地元を離れたときから更新されていないままであるせいか、ピントが合わない現実と疎外感がないまぜになる。6年前に突如父が亡くなったときでさえ、悲しみと後悔はずいぶん後になってから押し寄せた。実家に電話するたびに父は地元でのY子の活躍ぶりをうれしそうに語った。物怖じしがちな私とは違い、勉強も運動もできハキハキものを言える天真爛漫な子供時代のY子のままに変わらず情を注ぐようにして我が娘の如く話をした。学歴の有無や財産の有無、そして身分の高低など全く気にせず、純粋な自信に裏打ちされた明るさで四六時中機嫌よく自他と接する父についてゆけないところがあった。高校入学と同時に家を出た私は、ずいぶん長い間父のことを誤解していた。教養も語彙も豊富で社会的な責任ある肩書もあるY子は、そんな私の父をまっすぐ理解し好意的なまなざしを向けてくれていた。父の死後、彼女を介し父への誤解が溶けた部分もあったり、父とY子に共通する物事を複雑にしない良い意味での単純でストレートな素質に知らずのうちに守られていたのは私の方であるかもしれないことに、またしても自身の気づきの鈍さに愕然とする。お父さんが日に日に衰弱していかれるとき、そして天寿をまっとうされた今もなお悲しみを深くしていることだろうY子に父が生きていたら何と語りかけるのだろう、と父の声に耳をすます。



2024-12-08
自然と暮らし
手ぬぐいタオルと石鹸1個だけでお風呂に向かうSさんを見て、美留和に移り住んだ頃の自分たちのことを思い出した。浄化槽に流れ出て行く生活排水の生分解性に気を配ったのは夏の蛍の多さに驚き清流を目の当たりにしたことはもちろん、今でもそうだが、石鹸を作る会社に家人の幼馴染が勤めていたからという理由も大きかった。石鹸タイプのシャンプーはそれまでの合成シャンプーの成分が落ちないと泡立ちにくいことに加え、頭皮と髪が健やかに落ち着くまで人によっては扱いにくいということもあって、いつしか香料、着色なしではあるが合成の界面活性剤などを含むタイプの製品に変えてしまった。あれから20年以上経過して、今年の夏も2匹がつがいのように飛んでいるのを見つけただけでほとんどの蛍が姿を消してしまったのは、合成洗剤からの排水だけの問題ではないにしろ、暮らしの中のひとつひとつの選択や暮らし方全体の見なおしを我が家の喫緊の課題にあげていたこともあって、30年以上も有機農業を生業として、狩りもするSさんの「農業には矛盾がなくて、何より暮らしが心地よい」(心地よい暮らしをしたいがために有機農業をやっているようなもの)の一言の重みと含蓄深さにしみじみとした。今や災害から気候変動まで何かと免れないだろうに、そんな困難や苦労が表立って滲んでいるような様子は見あたらず、不思議と自然体で喜びと強さにあふれていた。5人のお子さんの誕生に際し、夫婦二人だけでの分娩、出産を選択したことは「ごく自然なことで、牛の子を何度も取り上げた経験もあったし、妊婦の年齢や健康状態から大丈夫だと思ってのこと、楽しいお産だった」と言う。有機農業を起業する目的で本州から北海道に渡って来られるまでの、そして、それまでの知識の構築と実践、経験あってこその生業と暮らしの延長線上にあるお産であったことには違いない。ここ美留和にて、身の丈に見合う心地よい暮らしの模索の中にある者にとって、まるで日照りに雨のような稀有な秘話としてこころに深く刻んだ。



2024-11-09
離郷
生まれは確か周辺の町で育ちは美留和、私たちの暮らす集落の入り口に門番のように建つそこの家主との朝夕の散歩時、買い出しの往復時のまるで通行許可証代わりの、しかし、何でもないお喋りは愉しい検問の時であった。噂に与しないし、今流行りのクリーンなエネルギーキャンペーンよりもずっと前の、家庭用の日本製太陽光パネルが出始めた頃に、原子力発電への反対の意思表明として設置したということや、洗濯物は角と角をきっちり揃えて干し、自身も日焼けして健やかでお日様が似合うYさんとのよもやま話の時間は移住して間もなかった私たちを美留和の住民として受け入れてもらっているかのようでうれしいものだった。息子さんは高校から地元を離れ、その後奥さんを早くに亡くしてしまって以来、家事や庭仕事いっさいを独りで行ってきたYさんは、昔からの北国での暮らしぶり、暮らし方のお手本になる気概ある、信頼できる番人だった。そんなYさんは、ここ1年半ほどの間にあれよあれよと体調を崩していった。後期高齢者とされる年齢に差しかかってはいたものの、ずっと健康で身体一本で人生を渡り歩いてきたようなYさんだったからか、身体機能の衰えはあまりにも早く感じられた。
Yさんが美留和を離れることになった。むろん本人は夏には美留和に戻ってくることを前提に、冬の間だけ息子のところで過ごしてみる、ということで出かけることにしたのだと言う。父のそんなもろもろの思いを汲みながら、しかし、美留和には戻れないかもしれないということも想定してYジュニアは準備し支度をした。息子を育て上げ、社会に送り出したという父としてのYさんには自負があった。勉強のために高校から美留和を離れ、やがて国立大学に進学、その後奥さんとは意見を違えたが専門学校まで出したのはYさんの判断であったこと、息子の結婚に当たり山陰地方のある町へ結納金を持参して乗り込んだときの愛あふれる父の姿など、どれもこれも微笑ましいエピソードであった。一方、一人っ子で長男であるYジュニアの責任感と医療従事者としての経験と専門的な観点、そして何より北国の冬の厳しさを彼自身も知るからこその父への呼びかけであったことも分かる。Yジュニアの言葉少なに父を見つめる優しさに悲しみをたたえたような深いまなざしは、私たちの知るYさんのそれにも重なる。
発つ日の朝は早いから前もって見送りの儀式は済ませたことにしていたはずだったが当日の出発時刻が迫ってくると、どちらからともなく、やはり「行こう!」と車を走らせた。しかし既に戸締りがされて庭周辺も整然と片付けられいっそうしんとしていた。無言のまま引き返し仕事の続きに取りかかった。ぽっかりしたまま、ひたすら手を動かしてその日を過ごした。夕方、めずらしく携帯に電話がかかってきた。初めて電話越しに聞くYさんの声だった。「今、部屋に到着しました」「まだ着いたばっかりだから、どんな様子って聞かれても分かんねえよ」というY節を不思議な感じで聞きとった。家人に代わると、間髪入れず「いつ俺んとこ(会いに)来んの?」と放ったYさんに、美留和の組長の兄貴ぶりは健在だ、と私たちは笑った。


