2022-04-03

Ode to Joy

序曲として奏でられた静かで愁いを帯びるその曲調に息を呑んだ。暫くぶりの生演奏の鑑賞であることもさながら、普段耳に馴染んだ歓喜の歌とは異質なそのメロディーに不意をつかれた。札饗のタクトを振る機会がたびたびあるその指揮者によって創られていく空気に、お一人お一人がプロの演奏家である各々の音が融けあう。そこにアーティストの詩歌が重なり協奏曲のような世界が現れる。アーティストの、北海道で生まれ育ったことの何かしらかが影響を及ぼさないはずはないであろうパフォーマンスと天性の歌声の対象は、音楽の神様がいるとするならば、そんな大きくて深く優しいものに向けられているように思えた。言葉がとがらずに絶妙な間合いで音符に乗せられ響く。意味を飛び越えた音楽家たちの内面の動きに呼応するかのようにこころを震わす。現在進行形で楽曲が象られていく流れの中に居合わせた一期一会を記憶の中で再現するとき音と共に過去が今に融けあう。


2022-03-04

巡り巡って

「ぐずぐずしなさんな。さっさとせんね(早くおやりなさいな)」迎えに来た母に追い立てられ、墨で手や服を汚してさらに叱られることのないよう張り詰めて片付けをしているときに「ひーちゃんは丁寧なんだよね」と習字の先生は言われた。幼少の私は言葉にはできなかったものの、ものごとには両側面があることを、対象をとらえるときの立ち位置で見え方が大きく違うことを知ることになった原初の体験だったように思う。久しぶりに南国に帰った4年前の秋、わざわざ車通りの少ない裏道を歩いて実家に向かっているとき手押し車の老女とすれ違った。田舎ではよくあることですれ違いざまに会釈したり挨拶を交わすのだが、その老女の声に反応し思わず顔を見合わせたというのが先生との40数年ぶりの再会だった。先生が弟や妹のことまで覚えていて下さったりして一瞬にして故郷に戻ってきたことの実感が増した。確かその時に再会の喜びに感謝とご自愛なさるよう記した葉書を出していた。この冬、1枚の寒中見舞いを受け取った。それは4年越しの、肉筆での先生からの返信だった。骨格の流麗さはそのまま、しかしご高齢による肉体の不自由さや先生の思いが震えとなって文字に現れていた。味わい深く感動的で、いつか「敬天愛人」を草書で書いてみたいこと、叶うならば先生の草書の臨書をしたい思いを葉書に乗せ再び投函した。思いは私から離れ巡り、きっとまた形を変え巡り戻ってくる。
つい先日、美しい名前の持ち主から椿の絵柄の封筒が届いた。それは16年前に会ったきり、当時はまだ低学年だった少女からの手紙だった。


2022-02-19

初月忌

真夏の、美留和ではそでを通すことのなくなったノースリーブの黒いワンピースを着て私たちの友人が眠る瀬戸内海が遠くに見渡せる小高い丘に向かったのは10数年前のこと。久しぶりに再会した彼は父として夫として、そして企業人として各々にこころを砕き穏やかにつつがなく暮らしている様子がみてとれた。そんな彼が2年前、突如闘病生活に入った。病名にしても時々知らされる経過、彼の地位、取り巻く環境からしても最先端医療技術での治療中であることは想像にたやすかった。まだ寡占化などされていなかった古き良き日本企業の成長時代に薬物動態の専門研究員として入社し長年勤め部下を束ね育てる立場になっていたほどの彼だから抜かりがないことは分かっていても先端医療以外の選択肢としてエビデンスをもつ代替医療があることを言わずにはいられなかった。代替医療を行うか行わないかは問題ではなくお守りではないが、いざというときの頼りになる切り札を持っておくことが重要に思われた。
訃報が知らされたとき、友人を失ってしまった戸惑いよりも妻のMさんの深い悲しみが押し寄せた。言葉にならない思いの塊が胸の奥につかえたまま津村節子や須賀敦子作品の言葉や情景ばかりが繰り返し思い起こされた。禁煙禁酒ならず禁読ではないが、とある資格試験を目前に勉強中である身にとって専門書以外の本を読むことはためらわれないわけでもなかったが、気持ちの流れに逆らわずに彼女らの作品をたびたび手に取った。死別に際し晒すにしても沈黙するにしても表現方法の違うそれぞれの作品の行間に現れる感情や精神に触れることが彼やご家族に対する喪の服し方にふさわしい気もした。彼らの結婚式のときに配布されたテレフォンカードに記された「二人は一人に勝る」の言葉はMさんの寂しさを際立たせる一方、彼のことだから大切な妻や家族に向けて真情を語るとき、彼自身がその言葉にどれだけ励まされていただろうことも確信する。彼に対する敬意とねぎらいの気持ちが回り巡ってMさんやご家族のもとに届きゆるぎのない力となりますよう。合掌