2022-06-22
名前
スコップを持つ手から体に、明らかに土とは違う衝撃が伝わるたびに、三つの「石」を思い起こした。もっと正しく言うと、石のつく姓のことで石牟礼、石抜、出石・・・など私よりずっと大先輩で、敬愛する女性たちのことを思い出していた。先日、とあることから係わりあったやはり同じ年嵩の女性も「石」の持ち主だった。石の王と書いて石王さん。先祖が何かしら石と関連した職業や土地の出身だったのだろうか・・・など、ついちまたの陰謀論や黒い影として噂される海の向こうの石工たちと並べてしまいがちな貧弱な発想を払拭するかのような響きをもつその姓に耳だけでなく、そのお人柄にも魅了された。石工たちを支配下に置くような威厳ある姓だからなのか、その持ち主のお声や話し方、身のこなしの柔和さは余計に際立って受け止められた。石王さんからの贈り物に同封されていた小冊子が自然食、自然療法の先駆者として語られる女性によって刊行されたもので、しかも数十年にわたり発刊し続けられているものであることを初めて知った。昔から連綿と語り、受け継がれてきた暮らしの知恵や工夫が紹介されていた。小冊子に編まれた言葉でさえ何かしら滋養になるようなそんな健全さが現われていた。
遠く離れたご家族からの突然の依頼で様子を確認に伺ったときに、電話に応答できないほど大そう具合を悪くされていたというご近所さんに、私が知る限りの、できる限りの自然療法に加え、石王さんを通して教えて頂いたお手当てを3日間続けた。そして、恐らくその小冊子を今、最も必要とされているだろうその方に届けた。内気で静かな性格に加え、見るからに東洋医学で言うところの「虚」の体質のご近所さんの分からなさや遠さは20数年のお付き合いの中においてはちっとも不自然ではなかっただけに、突如、何の衒いもなく姓ではなく私の名前を尋ねられたときには、驚きを呑みこんだ。自分でもあらためて確認するかのように三文字の名前を伝え、私も彼女に倣って衒うことなしにお名前を聞き返した。



2022-05-10
土の匂い、鳥の声、水の音
遠くの山並みの風景に薄桃が加わった。色、香、音が次々に春を映す。この時季の陽気は特に私たちを外に誘う。湧き水を汲みに。土を触りに。花の水やりに。まだカッコウの鳴き声は聞かれないものの、夏が短い美留和のこと、早速、家の中に置いておくプランターに種まきをする。ズッキーニ、キャベツ、ミニトマト、バジル。ニンジンはもっと暖かくなってから直播。美留和の腐葉土と取り寄せた固定種との相性やその他環境条件などによって、今年どの程度発芽し、育つものなのか分からないけれども、色んなことを思い巡らせてくれる「土と種」に理由もなく惹きつけられる。
ご近所さんが庭の辛夷が咲いていることを知らせて下さった。花開くその瞬間に立ち会いたいと、今朝もまだ固い蕾を確認したのは数時間前だったにもかかわらず、こちらもあっさりとお昼前の陽気に誘われてしまったようだ。



2022-04-03
Ode to Joy
序曲として奏でられた静かで愁いを帯びるその曲調に息を呑んだ。暫くぶりの生演奏の鑑賞であることもさながら、普段耳に馴染んだ歓喜の歌とは異質なそのメロディーに不意をつかれた。札饗のタクトを振る機会がたびたびあるその指揮者によって創られていく空気に、お一人お一人がプロの演奏家である各々の音が融けあう。そこにアーティストの詩歌が重なり協奏曲のような世界が現れる。アーティストの、北海道で生まれ育ったことの何かしらかが影響を及ぼさないはずはないであろうパフォーマンスと天性の歌声の対象は、音楽の神様がいるとするならば、そんな大きくて深く優しいものに向けられているように思えた。言葉がとがらずに絶妙な間合いで音符に乗せられ響く。意味を飛び越えた音楽家たちの内面の動きに呼応するかのようにこころを震わす。現在進行形で楽曲が象られていく流れの中に居合わせた一期一会を記憶の中で再現するとき音と共に過去が今に融けあう。


