2023-03-12
Мさん
夢の中にいるみたいにあたりはしんとしていて小鳥たち、エゾリス、鹿そして人ひとり通らない。こころがぽっかりしてきて、ずいぶん久しぶりにMさんを思った。出会いの経緯は思い出せないのだが大学1年生のあるときから私たちの文通は始まった。感覚やこころのつっかかりをうまく言葉に落とせず不安定な私の足元にMさんはその都度、細やかな配慮と常にある一定の距離感を保ちながら言葉を届けてくれた。1980年代後半、当時の弛緩して、また過剰に飾り立てられ浮遊する言葉を逸した、語彙の選択と文章の確かさ、思考の強靭さが現れる生きた言葉のつらなりは私を安心させた。そして魅了し励まし続けた。社会人になってはなれ離れになってからも、とりわけ一時期、海外での生活をすることになった居住先に届く彼女からの、120円の日本切手の貼られたエアメールはどれだけこころを強くしていたことだろう。その後も文通は続き、インターネットが普及しメールでのやり取りが時代の潮流になると、彼女からは毎年、手彫りで版画にした年賀状を除いて、私たちの手書きの文通はゆっくりとしぼんでいった。今読み返してみても彼女の言葉はしっかりしていて慈愛に満ち手書きの文字から感じ取られる息づかいはそのまま、現在の私をもなぐさめる。時代がさらに下ってみると、所有者不明の単純化した言葉が個人レベルで大量生産できるようになった。また、流行りのAIも言葉を操るだけでなく解釈もさせることが出来るようになったのだという。さらに技術革新すると、ある種の労働を代替させるくらいはすぐにできてしまうのだろう。ただし、文脈を棚の上にあげるからこそ成立可能なAIの数学的言語は「人間と同じように思考できる」かどうかは別のこと。人の根源を支える言葉はAIにも他人さまにも変わってはもらえず、何でもそうだが自足、他者との関わり合いの中で自身の内面から自ずと立ち上がる感性をしっかりした言葉に落としてゆく反復と持続の中にある。
何かの気配に思索の流れが消散した。暗闇の向こうで鹿が、食い入るように私を見つめている。



2023-02-25
原初の詩人
私や弟、妹が学校を卒業してから、例えば小学校であれば50年ほど経た今でも母は当時の先生方との交流をもつ。また自身の交友以外に60数年長く続いている父の中学時代の男ばかり数名での月1回の集まり、飲み会である「同年会」に父の代わりに参加してもいる。父が亡くなったときに同年会の退会を申し出たものの、代理での参加をお願いされてとのことだったとは言え、お酒は飲まないどころか、思っていることを外に出す前にいったん自分の中で殺してしまって肝心なことが伝わらず仕舞いになりがちな、どちらかと言えば社交は不得意とばかりに思っていた母が父の生前と同様の付き合いの中で過ごしている様子はありがたく、決して話上手とは言えない母からの報告に毎回愉しく耳を傾ける。先日は町で初老の男性に声をかけられたが、どなたかすぐに分からずお尋ねし返してみると私の小学校1年時の担任の先生に久しぶりに会ったのだという。先生はブラスバント部の顧問もされていたので私は合わせて4年間先生と過ごしたことになるが、児童時も卒業してからも先生との個人的なやり取りがあったわけではない。母は、先生が定年後同じ町に家を建ててお住まいになってからは出くわすことが増えた分、先生と保護者の間柄だけに終わらない親しみをもって話をする。今度帰ってきたときには会いに行ってごらん、と軽く母は言うが、会ってみたい思いはあっても先生を前にすると突如おかっぱ頭の小学1年生に戻り、どうふるまえばよいものか、話のとっかかりさえ思いつかない。社交辞令で取り繕いちぐはぐな違和感と不本意な思いを抱えるのは目に見えている。保護者として母に同行を乞うたら「生きてたらね」と茶化してきた。少し先の予定や約束には投げ返すようにこのセリフが発せられる。照れ屋が故か意図せずして風刺的で辛口になりがちな母の物言いだが、この少し乱暴に弾んだ声の切り返しを愉快に受け止める。
私にとって先生は記憶の中の、当時まだ独身で20代。先生は板書の字が美しくタクトを振る姿はとても情熱的だった。1年生の時、朝のホームルームの時間に算数セットで自習をしておくという約束が守れなかったとき、ブラスバンドの指導時に先生のイメージする音響に一向に近づけないとき、感情も言葉も行動も露にして本気で怒る先生だった。卒業時にはブラスバンド部の生徒一人ひとりに向けた先生の思いを美しい文字とともに詩にして記した色紙をそれぞれに贈って下さった。私にとって先生は、所謂先生と生徒の関係というよりも、これからも詩人であり芸術家であり続ける。



2023-01-07
蔵の本や
大晦日、三が日と予定を反故にして何よりもまず義父の身辺の清潔を取り戻すことに取りかかった。介護する方もされる方も共に新米で、とりわけ私たちは気ばかりが張って頭はあまり働かず、手を動かし体を動かした。高齢ではあるが「泣く子どころかヤクザも刑事も黙るお義父さん」と茶化してしまえるほど威勢の良さが持ち前の姿は、転んで左半身を痛めてしまったことで老いが急速に助長されたかのようにここ1~2週間ですっかり弱ってしまっていた。東洋医学と陰陽太極鍼を応用して体をさすってみたり、家人に至っては自らトレーニングパンツを身に着け、履き心地や蒸れ具合を確認しながら1日を過ごしたりもした。三が日が過ぎる頃になってようやく先送りしていた義母のお墓参りに出かけた。家人の通っていた幼稚園跡からジグザグに遠回りをして寺町通の家康、宮本武蔵ゆかりの徳願寺を巡った。途中、蔵を改装したという新しい古書店に立ち寄った。数名の古書の持ち主ごとにコーナー分けされ、それぞれにこだわりや思いのかかった本が展示してあった。時を忘れ次から次へと背表紙を目で追った。店主の、池波正太郎が生誕100周年であるという案内をきっかけに話を交わしているうち共通の知人がいることが分かった。地元の消防団員で、四半世紀以上も前の小型ポンプ操法の大会に出場した4名で構成されるメンバーのうちの一人。彼は指揮者で家人は1番隊員だった。結婚したばかりの私は初めて見る消防団員たちの切れある所作や動作に感心し、おもしろがって飽きずに練習を見学した。後日その店主よりメールを頂き、指揮者の彼が大会出場のことを懐かしがっていたこと、そしてあのときの優勝が「20分団のレジェンド」として語り草になっているという微笑ましい挿話を知らせて下さった。優勝を祝う打ち上げの寿司屋で、質朴で気取りない男たちが酒を飲みかわす場所に居合わせた当時のことを幸福な出来事として思い出した。
蔵の古書店との出会いによって思いもかけず、まるで小さな旅気分が運ばれ年末からなかなかほぐし切れずにいた心身の風通しを良くした。


