2022-10-14
雪の森生まれ
あたかも人の子であるかのように「康代」と呼ぶお宿かげやまは2003年1月にオープンした。美留和との出会いはそれを遡ること1997年の冬、当時まだ区割りすらなく、すっぽり雪に覆われた原生林を目前に、このへんをこれくらい、と不動産屋さんの手中の真っ白な地図にかじかむ指で小さく囲んだのがはじまり。父母たちの子に対する無償の思いや切実さには到底及びようもないが、私たちは康代を巡ってそれぞれに深く関わり合いながら過ごしてきた。時には思いがすれ違うのをよそに、贔屓に、そして大事にして下さるお客様のお蔭もあって康代らしさは時と共に自然と育まれてきた。お父さんっ子の箱入り娘も年が明けると21歳。康代が二十歳のうちに、そして父さんの還暦にもかこつけてと言うことにして、ようやく薪ストーブを据えることにした。
オープン当初、置くのであれば国産メーカーのものを漠然と希望したばかりになかなか会えずじまいのまま時が流れた。ここにきて康代にとって願ったりかなったりの出会いがあり、事がとんとん進んだ。永禄3年、西暦で言えば1560年創業、つまり戦国時代から鋳物生産をされているという老舗のストーブ。最近、特に若いお客様たちの反応からリノベーションを思わせるらしい古さが入り混じるようになった宿の空間と言っても、梵語で火神と名付けられたagniの落ち着きぶりを前にするとまだまだひよっこ。康代が1歳の誕生日記念にやってきた木の精霊宿る「王様の椅子」に加え、20年越しの火神宿る「AGNI」は厳冬生まれで道産子の康代にはよく似合う。



2022-09-10
父
「これあげる!」と片手いっぱいの草花をそのまま手向けるよう天を仰ぐ。早朝の秋風が混ざるようになった冷たい空気は、飛行機を乗り継ぎ新幹線と在来線を乗り継いで帰り着いた先に横たわる父の躯に触れたときの指先の感覚を呼び起こす。
急でもなく、かといって前々からご予約頂いていたわけでもなく、ある日、ご高齢のお父さんを連れていきたい、全館貸切のコースでお願いしたいとのご予約を受けた。豪華で何でも揃う高級旅館などとは異なるかげやまで良いものなのか、内心心配しながら確かめるように尋ねると、一度ご友人といらして下さり勝手を知るお客様であることが分かった。間もなく米寿という実年齢は当てにならないほど、お会いしたお父さんの心身共に溢れる健やかさに、皆がつい「お父さん」と呼んでしまいたくなるようなお人柄だった。決して重たくもなく押しつけがましくもない、素朴に娘を慮る父の内面がお父さんのお姿にまっすぐ現れるたびに美しいと感じいるばかりだった。そんな父性のようなものに亡き父を重ねながらお聞きするお話はじんとして、また楽しく、そして充実した。日本海の漁師町に生まれ育ったお父さんは、体が大きくはなかったことから家業は継がなかったこと、野球選手に憧れたけれども当時はユニフォームを購入できる家庭の子供しか野球部に入れなかったことで夢破れ、その後漠然と芸術家、特に楽器を弾く音楽家に憧れを抱くようになった。けれども自分は夢を果たせなかった、その後お母さんと出会って、お母さんの夢もまたピアニストだったことから、娘が小さい時に自分たちの夢でもあったグランドピアノを買ったこと、そして娘であるお客様は必然的に象られた道を辿るように音楽大学でピアノを専攻。その後、お客様はピアノからはしばらく離れていたものの今度は演奏を楽しむことを第一に再びあらためてグランドピアノの鍵盤を触るようになったというお話だった。さらに、ご自宅が古くなってグランドピアノを置いておくにはこころもとないのでかげやまのような空間にリノベーションしたいということも明かして下さった。
お父さんとお会いしたことから父との記憶が引き出され、母性と比べ分かりにくい父性の強さを裏打ちするかのような繊細さを反芻しながら草花を器に生ける。草花に、そして今晩お迎えするお顔なじみのお客様に似合いそうな器を選ぶ。花も食事もそれに似つかわしい、ふさわしい入れ物があるように、先日のお父さんは、2階の部屋に置いてあるというグランドピアノにふさわしい器としての、しっかりとした家造りも同時に成されたはずであろうことを思うと建築の体躯にまで関心が拡がった。



2022-07-21
やさしさと慈しみ
1923年7月末から約2週間をかけて宮澤賢治は北海道からサハリン(樺太、サガレン)を旅している。当時サハリンの南半分は日本の領土だった。前年の晩秋に亡くなった妹トシを悼み、花巻から青森、青函連絡船で北海道、汽車で稚内へ、船で宗谷海峡を渡り大泊へ、そして豊原から栄浜までの旅程に沿うように「青森挽歌」「オホーツク挽歌」「樺太鉄道」「鈴谷平原」などの一連の詩が生まれた。妹の死の直後に書かれた「永訣の朝」や「松の針」「無声慟哭」に現れていた感情よりも歳月を経て、今ここにはいない妹への思慕が募る。宮澤賢治は耕す人であり、詩人であり、描く人であり、また祈りの人でもあった。
二十歳前の一時期、院生や教職員が主に利用し学部学生の姿はほとんど見かけることのない理系大学の図書館でよく出くわし、ふたことみこと交わす程度の淡い交わりが細く長く続いた友人の6回目の月命日に、北海道の東の果てにて宮澤賢治の作品を再読する。ゆったりと聞き役に徹しながら、光を遮るようにまなざしを遠くにはせて傾聴する彼は私にとっても、周囲の誰かにとっても兄のような人であったことを思い返す。


