2023-08-13
原気
いつしか白髪のロングヘアになり歪んだ亀背に目が引かれるようになってからも、こころの内では彼女を出会ったころのままアン(赤毛のアン)と呼ぶ。年相応の身体の不具合や固有のハンディキャップはあっても声の芯にアンが見つかる。ところが先日、風音と間違うほどの小さなノックの音にドアを開けてみると、穏やかならぬ悲哀をまとったアンが玄関先に立ち尽くしていた。ただでさえ食が細く華奢なのに、消え入りそうになった彼女の背中を思わずさすった。悲痛な思いを胸に抱えるほどの体力がなくなっているのに食べるとむかむかしてどうしようもないから灸の施術をお願いに来たということだった。予定を調整してすぐに支度し彼女を訪問した。日頃から仰臥位も腹臥位も苦手な彼女なので座位で鍼や灸の施術をしているのだが今の体力と様子から、今回は台座灸を1箇所にのみ、あとは棒灸での施術を行うこととした。皮膚感覚の反応を見ながら、気の疎通と肝脾不和、腎陰虚の経絡の流中上の特に虚している経穴に灸をすえた。棒灸を近づけて熱く感じたら「ハイ」と言ってもらい、棒灸を遠ざけそしてまた近づけるということを繰り返す。小さい「ハイ」の声が次第に「いたっ!」「イダーっ!」「イデーっ!」「痛いよー!」「死ぬー!」など変化し織り交ざり、それはプリミティブな叫びとなって喪に服す彼女を彼女自身が癒しているように思えた。またその無防備な叫びは、5人兄弟で末っ子、4人のお兄さんたちの中で育ったという彼女の子供の頃の健やかさを彷彿とさせもした。痛みの皮膚感覚が脳に伝わると同時に情動を司る古脳にも響き無意識下ではあっても原気や原初の記憶が呼び起こされることが大切に思えた。バリエーション豊富なそれらの叫びは、彼女が生まれ持つ元来の健康や気質、知性の表れであると同時に人情の機微に触れるような暖かみをも発した。施術が終わる頃に、おもむろに彼女は話しはじめた。人生の80数年間、短くしたのは若い頃に一度きり、腰まで長くしていた髪を短くしようと思ってると言う。開き直ったり、もっともらしい言い訳を当てはめる単純さと器用さを持ち合わせないままここまで歩んできたような彼女だから前々から葛藤の時間を抱えて過ごした中での決心に違いないと思いを巡らせながら、すごく気分転換にはなるだろうこと、また仮に失敗したとしても髪は伸びるから、を伝えた。顔が小さくスラリとした七頭身の彼女のショートヘアスタイルも見てみたいと、ローマの休日のヘップバーンヘアや中川淳一が描くショートヘアの少女たちが次々と浮かんでは彼女に重なった。



2023-07-07
藪蛇
この季節、外から戻ると開口一番に「蛇に睨まれた」「蛇を踏みそうになった」「蛇がひなたぼっこしてた」のどれかを言う家人は人よりも誰よりも蛇とよく出くわす。蛇と言えば『永日小品』『蛇を踏む』『夜長姫と耳男』など小説の描写やモチーフとして扱われている蛇、はたまた八岐大蛇や世界保健機構や救急車のロゴに採用されているアスクレピオスの杖など世界の神話に登場する蛇などが、まず思い浮かぶ。民間薬としてマムシの焼酎漬けが各家庭に置いてあるような南国の田舎町で育った私でも車に轢かれた蛇はよく見かけてはいたものの、生きた蛇は草むらの中に遠目に気配を感じる程度で、ましてや蛇に睨まれたことも蛇と目を合わせたことなど一度もない。一方、家人の実家は首都圏から電車で20分くらい離れたほどの場所であっても50~60年くらい前までは、蓮田と畦道ばかりの風景が広がり、江戸川沿いや放水路が水浴びや釣りの絶好の遊び場であった。魚釣りや虫捕りと同じように蛇も捕まえたのだそうだ。白い蛇も見つけたことがあり、悪童数人で追いかけたが逃してしまったという。また小学4~5年生の頃のある日の夕方、屋根に何かが落ちた音がして2階にあがって確かめると、とぐろを巻いた蛇が突き出た1階部分の屋根上にいた。すぐに木刀を取りに行って捕まえようと試みたが頭を屋根の隙間に挟んだ蛇はみじんも動かず、あきらめきれないY少年は父を呼び「オレが首根っこを掴むからオヤジは尻尾を掴んでくれ」と頼んだが父は即座に「嫌だよ」と取り合ってくれず、ずっと蛇が気になって仕方がなかったそうだ。蛇は逃げるもの、逃がすものではなく、捕まえるものとしていまだに身体が思わず反応してしまうのだとしても、Y少年の頃は遥か遠くに過ぎ去った今、太古より生命力の象徴として、自然神として畏怖の念をもたれ崇められてきた蛇だけに、いつかしっぺ返しをくらい痛い思いをしやしないか落ち着かなくなる。もう誰も「蛇の道に蛇」など良いように勘違いしてくれることなどなく「藪蛇」にしかならないんだから・・・を呑みこむ。それにしても、ごくふつうの暮らしの中で目の前にする世界や風景の見え方、感じ方のズレや違いをまざまざと思い知らされるこんなときの衝撃こそ、まさにしっぺ返しだ。



2023-06-12
はぐれ者
写真は昭和30年頃、当時の新聞記事に使われたもので飯田橋の凧屋の様子。左手前は19歳頃のかげやまの父。父は7人兄弟姉妹で、他の兄二人姉一人、妹二人弟一人はその時代にあっても高校(旧制中学)または大学まで出してもらっているほど恵まれた家庭環境であったにもかかわらず、中学卒業と同時に家を出た。戦前戦後の大人たちの事情を知ってか知らずか、混沌のさなかに子供だった父は自らはぐれるように家を飛び出した。生きるか死ぬかの闘いの痕跡がまだ熱を帯びているようなさなかに与えられた「平和」の掌返しの社会のなかでまっとうに生きる感覚が鈍らされ、必然的に裏社会に足を突っ込まずにすんだのは、単に偶然で、父は丁稚奉公として家を出たのだった。その後も父の口癖ではあるが、「人に恵まれた」「運がよかった」の通り、バイク事故で入院した先の新宿の病院で、盲腸の手術で同じく入院していた母と出会い恋に落ちた。その後結婚、子供が出来たことをきっかけに親方のつてである会社に就職し定年まで勤め上げた。父は現役の頃も今も財布と小銭を持たない。折り畳んだお札が常にポケットに入れてあり、タクシーでも定食屋でも支払い後にお釣りをもらわない。しかし、そういうわけにはいかないお店からお釣りを押し付けられると母に渡す。母が他界してからは「おまえにやる」と掴んだ小銭が私に向かって差し出される。兄弟姉妹旅行や友人たちと行った先での飲み食い時には割り勘を嫌ってなのか、きまって父がぱっと支払いを済ます。「金の切れ目が縁の切れ目」や「生きた金を使え」も父の口癖で、別段食通であるわけでもなく酒1滴も飲まない人だがご馳走をする。駅で出くわした息子の幼馴染たちにも酒をご馳走したりもする。そんな父の様子はアメリカ原住民の儀礼、ポトラッチのイメージを呼び起こす。ただし、蔭山家はごく一般の中流家庭であり、ひとえに母の理解と寛容、やり繰りに支えられてのお蔭であったかと思う。宴たけなわになって少し間をおいてからお開きの声をかけるのも父である。上機嫌になっている酒飲みたちの気分を害するわけでもなくその間合いは絶妙で何ともさっぱりしている。粋である。
そんな父と周辺の人々も高齢のため、出かける機会がめっきり減ってしまい皆それぞれに家族や介護のサポートを乞うている。離れて暮らす私たちは父を美留和に呼び寄せることを考えたこともあるのだが、今となっては住み慣れた街から、兄弟姉妹をはじめ友人知人との数十年に渡る人間関係が築かれている土地から父を引き離さずにすんで良かったと思う。自然の常ではあるが、これからさらに枯れ細っていく老人の中に洋服で雪駄姿の、はぐれ者で粋な父の面影をいつまでも追い続けるだろう。


