2023-05-15
夕闇
突如外灯がともった。今では体の自由度が制限されてはいても、何かよっぽどのことを除いて多くは胸のうちに留めたままの控えめな姿が日頃の様子なだけに、薄暗い中をこちらに向かい近づく老女の気配に、具合でも悪くされてしまったのだろうか・・・と身を構えた。こちらから声をかける前に「もう、おやめなさいな、危ないわよ」と細い声が届いた。珍しく外で仕事をしている私を慮ってわざわざ出てきて下さったことをようやく理解した。配送してもらったばかりの次の冬のための薪を薪棚に積む作業をしているところだった。危ないから、を繰り返しつつ「プレゼント」と言って、おもむろに干し柿が差し出された。心配をかけてしまったことを詫び、その「プレゼント」ーこころのこもった差し入れーをありがたく頂戴した。去年の作業時に手の親指が動かせなくなったこと、足の親指側の足底がつったことから、しっかりふんばれるよう5本指の靴下を履いて手の短母指外転筋と母指内転筋、足の前脛骨筋をサポートするようにテーピングをしたりなど、思いつくかぎり万全の準備をし挑んでいた。家人の留守中に一人で担う大役に、体力の閾値の限界を多少上回っても精神的には高揚していたこともあろうが、実は幼少の頃のことがふと思い出されて、なかなか作業を止められない状態に陥っていた。20代前半の若い父母が二人で始めた自営業の木材工場で、夕方職人さんたちが仕事を終え引き上げたあとの、夕刻からすっかり暗くなるのを過ぎても仕事をする両親の周りで遊んでいたことが思い出されたのだった。何度訂正しても、そのときのことが話題にのぼるときまって母は、子供たちに不憫な思いをさせてしまったと言うのだが子供の頃の私は、忙しい両親の近くにいられることが単純にうれしかったのだ。作業そのものよりも懐かしい記憶になかなか切りをつけられなかったところの老女の助け舟は、その情景を蒼い空にゆっくり還していった。



2023-04-26
小言
座学と変わらず部活にも時間を費やし、力の入れようは部活に軍配があがる恵まれた体躯の持ち主である甥と、他の教科に比べ英語が得意で気持ちの細やかな姪が、この春にそれぞれ高校、中学の最終学年を迎えた。彼らに向けて話すことは、同じことに収束してしまい、そのたびに芸がないなと情けなく思う。毎日の部活では鍛えられた肉体に見合うメンタルの強化もしておくこと、そして語学力よりも語彙力、国語力をおろそかにしないこと、がそれぞれに対するいつもの内容だ。しかし、この小言は年相応に勢いや熱量がしぼんできた我が身に対する独語でもあり、老若男女みながそれぞれ、その一生の時間軸に対応する身の丈に応じて積んでゆく鍛錬にも通じる。体力・気力と国語力。体力なし、国語の練習なしのスマホやパソコン、SNSなどでのお手軽で受売りの、反射的で即効性のあるコミュニケーションに依ってばかりいると本当にどうしようもなくなったとき、そんな危地だからこそ必要とされる思考力にあたってのはじめの一歩、順境に向きなおす構えすら忘却してしまうことになりかねない。手間暇がかかり非効率、非合理に思えても、頭と心がまだ柔らかなうちに練習を始めておくことが自身の助けになる。
哲学者のウィトゲンシュタインが言ったこと ─ 言葉の限界がその人の限界 ─ であるとすれば、言葉がすぐに折れてしまう、言葉が細ってきている言語環境においては自らを窮地に招く部分もあるのかもしれない。また、良し悪し問わず手が加えられた情報氾濫の時代には外せない情報リテラシーの礎になるのも国語力であることを、これから心身の硬結をほぐす練習も加えてゆく我が身に向け、ここで確認しておきたい。



2023-03-12
Мさん
夢の中にいるみたいにあたりはしんとしていて小鳥たち、エゾリス、鹿そして人ひとり通らない。こころがぽっかりしてきて、ずいぶん久しぶりにMさんを思った。出会いの経緯は思い出せないのだが大学1年生のあるときから私たちの文通は始まった。感覚やこころのつっかかりをうまく言葉に落とせず不安定な私の足元にMさんはその都度、細やかな配慮と常にある一定の距離感を保ちながら言葉を届けてくれた。1980年代後半、当時の弛緩して、また過剰に飾り立てられ浮遊する言葉を逸した、語彙の選択と文章の確かさ、思考の強靭さが現れる生きた言葉のつらなりは私を安心させた。そして魅了し励まし続けた。社会人になってはなれ離れになってからも、とりわけ一時期、海外での生活をすることになった居住先に届く彼女からの、120円の日本切手の貼られたエアメールはどれだけこころを強くしていたことだろう。その後も文通は続き、インターネットが普及しメールでのやり取りが時代の潮流になると、彼女からは毎年、手彫りで版画にした年賀状を除いて、私たちの手書きの文通はゆっくりとしぼんでいった。今読み返してみても彼女の言葉はしっかりしていて慈愛に満ち手書きの文字から感じ取られる息づかいはそのまま、現在の私をもなぐさめる。時代がさらに下ってみると、所有者不明の単純化した言葉が個人レベルで大量生産できるようになった。また、流行りのAIも言葉を操るだけでなく解釈もさせることが出来るようになったのだという。さらに技術革新すると、ある種の労働を代替させるくらいはすぐにできてしまうのだろう。ただし、文脈を棚の上にあげるからこそ成立可能なAIの数学的言語は「人間と同じように思考できる」かどうかは別のこと。人の根源を支える言葉はAIにも他人さまにも変わってはもらえず、何でもそうだが自足、他者との関わり合いの中で自身の内面から自ずと立ち上がる感性をしっかりした言葉に落としてゆく反復と持続の中にある。
何かの気配に思索の流れが消散した。暗闇の向こうで鹿が、食い入るように私を見つめている。


