2023-07-07

藪蛇

この季節、外から戻ると開口一番に「蛇に睨まれた」「蛇を踏みそうになった」「蛇がひなたぼっこしてた」のどれかを言う家人は人よりも誰よりも蛇とよく出くわす。蛇と言えば『永日小品』『蛇を踏む』『夜長姫と耳男』など小説の描写やモチーフとして扱われている蛇、はたまた八岐大蛇や世界保健機構や救急車のロゴに採用されているアスクレピオスの杖など世界の神話に登場する蛇などが、まず思い浮かぶ。民間薬としてマムシの焼酎漬けが各家庭に置いてあるような南国の田舎町で育った私でも車に轢かれた蛇はよく見かけてはいたものの、生きた蛇は草むらの中に遠目に気配を感じる程度で、ましてや蛇に睨まれたことも蛇と目を合わせたことなど一度もない。一方、家人の実家は首都圏から電車で20分くらい離れたほどの場所であっても50~60年くらい前までは、蓮田と畦道ばかりの風景が広がり、江戸川沿いや放水路が水浴びや釣りの絶好の遊び場であった。魚釣りや虫捕りと同じように蛇も捕まえたのだそうだ。白い蛇も見つけたことがあり、悪童数人で追いかけたが逃してしまったという。また小学4~5年生の頃のある日の夕方、屋根に何かが落ちた音がして2階にあがって確かめると、とぐろを巻いた蛇が突き出た1階部分の屋根上にいた。すぐに木刀を取りに行って捕まえようと試みたが頭を屋根の隙間に挟んだ蛇はみじんも動かず、あきらめきれないY少年は父を呼び「オレが首根っこを掴むからオヤジは尻尾を掴んでくれ」と頼んだが父は即座に「嫌だよ」と取り合ってくれず、ずっと蛇が気になって仕方がなかったそうだ。蛇は逃げるもの、逃がすものではなく、捕まえるものとしていまだに身体が思わず反応してしまうのだとしても、Y少年の頃は遥か遠くに過ぎ去った今、太古より生命力の象徴として、自然神として畏怖の念をもたれ崇められてきた蛇だけに、いつかしっぺ返しをくらい痛い思いをしやしないか落ち着かなくなる。もう誰も「蛇の道に蛇」など良いように勘違いしてくれることなどなく「藪蛇」にしかならないんだから・・・を呑みこむ。それにしても、ごくふつうの暮らしの中で目の前にする世界や風景の見え方、感じ方のズレや違いをまざまざと思い知らされるこんなときの衝撃こそ、まさにしっぺ返しだ。


2023-06-12

はぐれ者

写真は昭和30年頃、当時の新聞記事に使われたもので飯田橋の凧屋の様子。左手前は19歳頃のかげやまの父。父は7人兄弟姉妹で、他の兄二人姉一人、妹二人弟一人はその時代にあっても高校(旧制中学)または大学まで出してもらっているほど恵まれた家庭環境であったにもかかわらず、中学卒業と同時に家を出た。戦前戦後の大人たちの事情を知ってか知らずか、混沌のさなかに子供だった父は自らはぐれるように家を飛び出した。生きるか死ぬかの闘いの痕跡がまだ熱を帯びているようなさなかに与えられた「平和」の掌返しの社会のなかでまっとうに生きる感覚が鈍らされ、必然的に裏社会に足を突っ込まずにすんだのは、単に偶然で、父は丁稚奉公として家を出たのだった。その後も父の口癖ではあるが、「人に恵まれた」「運がよかった」の通り、バイク事故で入院した先の新宿の病院で、盲腸の手術で同じく入院していた母と出会い恋に落ちた。その後結婚、子供が出来たことをきっかけに親方のつてである会社に就職し定年まで勤め上げた。父は現役の頃も今も財布と小銭を持たない。折り畳んだお札が常にポケットに入れてあり、タクシーでも定食屋でも支払い後にお釣りをもらわない。しかし、そういうわけにはいかないお店からお釣りを押し付けられると母に渡す。母が他界してからは「おまえにやる」と掴んだ小銭が私に向かって差し出される。兄弟姉妹旅行や友人たちと行った先での飲み食い時には割り勘を嫌ってなのか、きまって父がぱっと支払いを済ます。「金の切れ目が縁の切れ目」や「生きた金を使え」も父の口癖で、別段食通であるわけでもなく酒1滴も飲まない人だがご馳走をする。駅で出くわした息子の幼馴染たちにも酒をご馳走したりもする。そんな父の様子はアメリカ原住民の儀礼、ポトラッチのイメージを呼び起こす。ただし、蔭山家はごく一般の中流家庭であり、ひとえに母の理解と寛容、やり繰りに支えられてのお蔭であったかと思う。宴たけなわになって少し間をおいてからお開きの声をかけるのも父である。上機嫌になっている酒飲みたちの気分を害するわけでもなくその間合いは絶妙で何ともさっぱりしている。粋である。
そんな父と周辺の人々も高齢のため、出かける機会がめっきり減ってしまい皆それぞれに家族や介護のサポートを乞うている。離れて暮らす私たちは父を美留和に呼び寄せることを考えたこともあるのだが、今となっては住み慣れた街から、兄弟姉妹をはじめ友人知人との数十年に渡る人間関係が築かれている土地から父を引き離さずにすんで良かったと思う。自然の常ではあるが、これからさらに枯れ細っていく老人の中に洋服で雪駄姿の、はぐれ者で粋な父の面影をいつまでも追い続けるだろう。


2023-05-15

夕闇

突如外灯がともった。今では体の自由度が制限されてはいても、何かよっぽどのことを除いて多くは胸のうちに留めたままの控えめな姿が日頃の様子なだけに、薄暗い中をこちらに向かい近づく老女の気配に、具合でも悪くされてしまったのだろうか・・・と身を構えた。こちらから声をかける前に「もう、おやめなさいな、危ないわよ」と細い声が届いた。珍しく外で仕事をしている私を慮ってわざわざ出てきて下さったことをようやく理解した。配送してもらったばかりの次の冬のための薪を薪棚に積む作業をしているところだった。危ないから、を繰り返しつつ「プレゼント」と言って、おもむろに干し柿が差し出された。心配をかけてしまったことを詫び、その「プレゼント」ーこころのこもった差し入れーをありがたく頂戴した。去年の作業時に手の親指が動かせなくなったこと、足の親指側の足底がつったことから、しっかりふんばれるよう5本指の靴下を履いて手の短母指外転筋と母指内転筋、足の前脛骨筋をサポートするようにテーピングをしたりなど、思いつくかぎり万全の準備をし挑んでいた。家人の留守中に一人で担う大役に、体力の閾値の限界を多少上回っても精神的には高揚していたこともあろうが、実は幼少の頃のことがふと思い出されて、なかなか作業を止められない状態に陥っていた。20代前半の若い父母が二人で始めた自営業の木材工場で、夕方職人さんたちが仕事を終え引き上げたあとの、夕刻からすっかり暗くなるのを過ぎても仕事をする両親の周りで遊んでいたことが思い出されたのだった。何度訂正しても、そのときのことが話題にのぼるときまって母は、子供たちに不憫な思いをさせてしまったと言うのだが子供の頃の私は、忙しい両親の近くにいられることが単純にうれしかったのだ。作業そのものよりも懐かしい記憶になかなか切りをつけられなかったところの老女の助け舟は、その情景を蒼い空にゆっくり還していった。