2023-04-26

小言

座学と変わらず部活にも時間を費やし、力の入れようは部活に軍配があがる恵まれた体躯の持ち主である甥と、他の教科に比べ英語が得意で気持ちの細やかな姪が、この春にそれぞれ高校、中学の最終学年を迎えた。彼らに向けて話すことは、同じことに収束してしまい、そのたびに芸がないなと情けなく思う。毎日の部活では鍛えられた肉体に見合うメンタルの強化もしておくこと、そして語学力よりも語彙力、国語力をおろそかにしないこと、がそれぞれに対するいつもの内容だ。しかし、この小言は年相応に勢いや熱量がしぼんできた我が身に対する独語でもあり、老若男女みながそれぞれ、その一生の時間軸に対応する身の丈に応じて積んでゆく鍛錬にも通じる。体力・気力と国語力。体力なし、国語の練習なしのスマホやパソコン、SNSなどでのお手軽で受売りの、反射的で即効性のあるコミュニケーションに依ってばかりいると本当にどうしようもなくなったとき、そんな危地だからこそ必要とされる思考力にあたってのはじめの一歩、順境に向きなおす構えすら忘却してしまうことになりかねない。手間暇がかかり非効率、非合理に思えても、頭と心がまだ柔らかなうちに練習を始めておくことが自身の助けになる。

哲学者のウィトゲンシュタインが言ったこと ─ 言葉の限界がその人の限界 ─ であるとすれば、言葉がすぐに折れてしまう、言葉が細ってきている言語環境においては自らを窮地に招く部分もあるのかもしれない。また、良し悪し問わず手が加えられた情報氾濫の時代には外せない情報リテラシーの礎になるのも国語力であることを、これから心身の硬結をほぐす練習も加えてゆく我が身に向け、ここで確認しておきたい。


2023-03-12

Мさん

夢の中にいるみたいにあたりはしんとしていて小鳥たち、エゾリス、鹿そして人ひとり通らない。こころがぽっかりしてきて、ずいぶん久しぶりにMさんを思った。出会いの経緯は思い出せないのだが大学1年生のあるときから私たちの文通は始まった。感覚やこころのつっかかりをうまく言葉に落とせず不安定な私の足元にMさんはその都度、細やかな配慮と常にある一定の距離感を保ちながら言葉を届けてくれた。1980年代後半、当時の弛緩して、また過剰に飾り立てられ浮遊する言葉を逸した、語彙の選択と文章の確かさ、思考の強靭さが現れる生きた言葉のつらなりは私を安心させた。そして魅了し励まし続けた。社会人になってはなれ離れになってからも、とりわけ一時期、海外での生活をすることになった居住先に届く彼女からの、120円の日本切手の貼られたエアメールはどれだけこころを強くしていたことだろう。その後も文通は続き、インターネットが普及しメールでのやり取りが時代の潮流になると、彼女からは毎年、手彫りで版画にした年賀状を除いて、私たちの手書きの文通はゆっくりとしぼんでいった。今読み返してみても彼女の言葉はしっかりしていて慈愛に満ち手書きの文字から感じ取られる息づかいはそのまま、現在の私をもなぐさめる。時代がさらに下ってみると、所有者不明の単純化した言葉が個人レベルで大量生産できるようになった。また、流行りのAIも言葉を操るだけでなく解釈もさせることが出来るようになったのだという。さらに技術革新すると、ある種の労働を代替させるくらいはすぐにできてしまうのだろう。ただし、文脈を棚の上にあげるからこそ成立可能なAIの数学的言語は「人間と同じように思考できる」かどうかは別のこと。人の根源を支える言葉はAIにも他人さまにも変わってはもらえず、何でもそうだが自足、他者との関わり合いの中で自身の内面から自ずと立ち上がる感性をしっかりした言葉に落としてゆく反復と持続の中にある。
何かの気配に思索の流れが消散した。暗闇の向こうで鹿が、食い入るように私を見つめている。


2023-02-25

原初の詩人

私や弟、妹が学校を卒業してから、例えば小学校であれば50年ほど経た今でも母は当時の先生方との交流をもつ。また自身の交友以外に60数年長く続いている父の中学時代の男ばかり数名での月1回の集まり、飲み会である「同年会」に父の代わりに参加してもいる。父が亡くなったときに同年会の退会を申し出たものの、代理での参加をお願いされてとのことだったとは言え、お酒は飲まないどころか、思っていることを外に出す前にいったん自分の中で殺してしまって肝心なことが伝わらず仕舞いになりがちな、どちらかと言えば社交は不得意とばかりに思っていた母が父の生前と同様の付き合いの中で過ごしている様子はありがたく、決して話上手とは言えない母からの報告に毎回愉しく耳を傾ける。先日は町で初老の男性に声をかけられたが、どなたかすぐに分からずお尋ねし返してみると私の小学校1年時の担任の先生に久しぶりに会ったのだという。先生はブラスバント部の顧問もされていたので私は合わせて4年間先生と過ごしたことになるが、児童時も卒業してからも先生との個人的なやり取りがあったわけではない。母は、先生が定年後同じ町に家を建ててお住まいになってからは出くわすことが増えた分、先生と保護者の間柄だけに終わらない親しみをもって話をする。今度帰ってきたときには会いに行ってごらん、と軽く母は言うが、会ってみたい思いはあっても先生を前にすると突如おかっぱ頭の小学1年生に戻り、どうふるまえばよいものか、話のとっかかりさえ思いつかない。社交辞令で取り繕いちぐはぐな違和感と不本意な思いを抱えるのは目に見えている。保護者として母に同行を乞うたら「生きてたらね」と茶化してきた。少し先の予定や約束には投げ返すようにこのセリフが発せられる。照れ屋が故か意図せずして風刺的で辛口になりがちな母の物言いだが、この少し乱暴に弾んだ声の切り返しを愉快に受け止める。
私にとって先生は記憶の中の、当時まだ独身で20代。先生は板書の字が美しくタクトを振る姿はとても情熱的だった。1年生の時、朝のホームルームの時間に算数セットで自習をしておくという約束が守れなかったとき、ブラスバンドの指導時に先生のイメージする音響に一向に近づけないとき、感情も言葉も行動も露にして本気で怒る先生だった。卒業時にはブラスバンド部の生徒一人ひとりに向けた先生の思いを美しい文字とともに詩にして記した色紙をそれぞれに贈って下さった。私にとって先生は、所謂先生と生徒の関係というよりも、これからも詩人であり芸術家であり続ける。