2024-12-08
自然と暮らし
手ぬぐいタオルと石鹸1個だけでお風呂に向かうSさんを見て、美留和に移り住んだ頃の自分たちのことを思い出した。浄化槽に流れ出て行く生活排水の生分解性に気を配ったのは夏の蛍の多さに驚き清流を目の当たりにしたことはもちろん、今でもそうだが、石鹸を作る会社に家人の幼馴染が勤めていたからという理由も大きかった。石鹸タイプのシャンプーはそれまでの合成シャンプーの成分が落ちないと泡立ちにくいことに加え、頭皮と髪が健やかに落ち着くまで人によっては扱いにくいということもあって、いつしか香料、着色なしではあるが合成の界面活性剤などを含むタイプの製品に変えてしまった。あれから20年以上経過して、今年の夏も2匹がつがいのように飛んでいるのを見つけただけでほとんどの蛍が姿を消してしまったのは、合成洗剤からの排水だけの問題ではないにしろ、暮らしの中のひとつひとつの選択や暮らし方全体の見なおしを我が家の喫緊の課題にあげていたこともあって、30年以上も有機農業を生業として、狩りもするSさんの「農業には矛盾がなくて、何より暮らしが心地よい」(心地よい暮らしをしたいがために有機農業をやっているようなもの)の一言の重みと含蓄深さにしみじみとした。今や災害から気候変動まで何かと免れないだろうに、そんな困難や苦労が表立って滲んでいるような様子は見あたらず、不思議と自然体で喜びと強さにあふれていた。5人のお子さんの誕生に際し、夫婦二人だけでの分娩、出産を選択したことは「ごく自然なことで、牛の子を何度も取り上げた経験もあったし、妊婦の年齢や健康状態から大丈夫だと思ってのこと、楽しいお産だった」と言う。有機農業を起業する目的で本州から北海道に渡って来られるまでの、そして、それまでの知識の構築と実践、経験あってこその生業と暮らしの延長線上にあるお産であったことには違いない。ここ美留和にて、身の丈に見合う心地よい暮らしの模索の中にある者にとって、まるで日照りに雨のような稀有な秘話としてこころに深く刻んだ。



2024-11-09
離郷
生まれは確か周辺の町で育ちは美留和、私たちの暮らす集落の入り口に門番のように建つそこの家主との朝夕の散歩時、買い出しの往復時のまるで通行許可証代わりの、しかし、何でもないお喋りは愉しい検問の時であった。噂に与しないし、今流行りのクリーンなエネルギーキャンペーンよりもずっと前の、家庭用の日本製太陽光パネルが出始めた頃に、原子力発電への反対の意思表明として設置したということや、洗濯物は角と角をきっちり揃えて干し、自身も日焼けして健やかでお日様が似合うYさんとのよもやま話の時間は移住して間もなかった私たちを美留和の住民として受け入れてもらっているかのようでうれしいものだった。息子さんは高校から地元を離れ、その後奥さんを早くに亡くしてしまって以来、家事や庭仕事いっさいを独りで行ってきたYさんは、昔からの北国での暮らしぶり、暮らし方のお手本になる気概ある、信頼できる番人だった。そんなYさんは、ここ1年半ほどの間にあれよあれよと体調を崩していった。後期高齢者とされる年齢に差しかかってはいたものの、ずっと健康で身体一本で人生を渡り歩いてきたようなYさんだったからか、身体機能の衰えはあまりにも早く感じられた。
Yさんが美留和を離れることになった。むろん本人は夏には美留和に戻ってくることを前提に、冬の間だけ息子のところで過ごしてみる、ということで出かけることにしたのだと言う。父のそんなもろもろの思いを汲みながら、しかし、美留和には戻れないかもしれないということも想定してYジュニアは準備し支度をした。息子を育て上げ、社会に送り出したという父としてのYさんには自負があった。勉強のために高校から美留和を離れ、やがて国立大学に進学、その後奥さんとは意見を違えたが専門学校まで出したのはYさんの判断であったこと、息子の結婚に当たり山陰地方のある町へ結納金を持参して乗り込んだときの愛あふれる父の姿など、どれもこれも微笑ましいエピソードであった。一方、一人っ子で長男であるYジュニアの責任感と医療従事者としての経験と専門的な観点、そして何より北国の冬の厳しさを彼自身も知るからこその父への呼びかけであったことも分かる。Yジュニアの言葉少なに父を見つめる優しさに悲しみをたたえたような深いまなざしは、私たちの知るYさんのそれにも重なる。
発つ日の朝は早いから前もって見送りの儀式は済ませたことにしていたはずだったが当日の出発時刻が迫ってくると、どちらからともなく、やはり「行こう!」と車を走らせた。しかし既に戸締りがされて庭周辺も整然と片付けられいっそうしんとしていた。無言のまま引き返し仕事の続きに取りかかった。ぽっかりしたまま、ひたすら手を動かしてその日を過ごした。夕方、めずらしく携帯に電話がかかってきた。初めて電話越しに聞くYさんの声だった。「今、部屋に到着しました」「まだ着いたばっかりだから、どんな様子って聞かれても分かんねえよ」というY節を不思議な感じで聞きとった。家人に代わると、間髪入れず「いつ俺んとこ(会いに)来んの?」と放ったYさんに、美留和の組長の兄貴ぶりは健在だ、と私たちは笑った。



2024-10-08
「友人」
隣町の一軒家で一人暮らしを始めた若いとき家族皆のアルバムをまるごと持ち出し、そのずっと後の北海道への移住時にも運んできたままであることが心残りだから、父母や兄たち、弟のものは引き取ってもらえる親族に返しておきたいという、彼女の決心を聞いてしばらくしてからアルバムの整理を手伝った。明治生まれの、当時としては珍しく、東京高等工芸学校(現千葉大工学部)で学び、時計の設計技術者であったという洋装で中折帽子姿のお父さんの革製のアルバム。彼女の小学生の頃の疎開先でもあった福島の、使用人がいたほどの大きな農家の生まれで、女学校を出て和裁の先生をしていたというお母さんのアルバム。お祖父さんが教育者だったこともあって孫たちも旧制高等学校で学んでいたというお兄さんたちのアルバム。「noblesse oblige ―高潔な若人が果たすべき責任と義務―」を校訓とし、大事業家によって社会貢献のひとつとして設立された私立の女子高に通っていた頃の彼女自身のアルバム。正方形の珍しい型のサイズに加え、現像の具合と仕上がりが他のものとは違う写真、これらは外交官としてドイツに赴任をしていた叔父さんが海外のカメラで撮ってくれたものだと言う。ひょっこり顔を出した記憶の断片が呼び水となり言葉が流れ始める。軍需工場と化した、お父さんが責任者であった時計工場への爆撃の爆風で片腕をなくし義腕であったという話。若くして胃癌と診断されたお母さんの摘出手術が東京第二国立病院(現東京医療センター)で行われたこと、術後の経過をテレビ番組に取り上げられることになり、不謹慎かどうかはともかくも、放送現場を知る滅多にない機会だからと中学生だった彼女も一緒に渋谷のテレビ局に連れて行かれたという話。高校2年生のときに癌でお母さんを失い、それからは彼女が男所帯の家事一切を引き受けたこと。ロングヘアを三つ編みにして闊達な表情で写る高校生の少女は普通科の合唱部でソプラノ、歌が得意だったこと。日比谷公会堂での発表会の様子が写る。たった1冊のアルバムにでさえ、語り尽くせないたくさんの思いと会話、時間が堆積する。ただの「お隣さん」として日々挨拶を交わす暮らしの中で伺い知得る、女性の一人暮らしにしては工具類を豊富に揃え自身で修繕を試み、服や帽子などは布をミシンで縫い、毛糸で編んで纏う。車は持たず、徒歩、バス、またはタクシーを利用、あらゆる買い物は町のお店で済ませる。古いものへの愛着も繕うかのような手作りの暮らしぶりを裏打ちする秘密を明かされる気がした。人を寄せ付けないと思わせてしまうような普段の彼女の言葉使いが、東京の山の手に生まれ、その地で育まれ身についた自然な言葉や態度、話し方であったことにも合点が行き、むしろ好感が増した。同時代に生まれ高校生の頃に出会っていたなら友達になれていただろうか。彼女とは母親や姉、妹または叔母や姪などの関係性を想像しにくい。言葉がきっぱり、しかし熱くも冷たくもなく正直で、子供であろうが大人であろうが相手を思い通りにしないし値踏みをしない、人格を否定しない(攻撃しない)。彼女はかつても、そしてこれから誰に出会っても「友人」の女性像を秘める人であり続けるのだろうと思う、ー 孤高の ー。


