2025-02-10

湧水

アイヌ語のペルワンベツが転じビルワになったのが土地の名前、美留和の由来だ。語源の意味するところは「清き泉の水が流れるところ」。中でも私たちが暮らす集落は湿地帯でその水は摩周湖の伏流水らしいことを話すと、生まれも育ちも東京のSさんがふと、そう遠くない昔のことだけれども、近所の井の頭公園もかつては水が湧いて、皆が「お茶の水」と呼んで水汲みに来てお茶を沸かしていたのだと言う。今では都心だと思っている渋谷や青山でさえかつては東京の田舎と言われていたことを思えば、短い間に信じられないほど自然の風景が変わり清き水が失われてしまったことになる。どの土地にも原初の風景があって、ここ道東は幸運にも手つかずの自然が偶然に残されているに過ぎないのだが、世界中に張り巡らされた情報網の中にあっては、保守保全したいという強い思いなしには、さらに暮らし方を間違うと速度はゆるやかであっても当然変容し失われていく。50年くらい前Sさんが学生だったころの道東に旅をしたときの話に移り、『深夜特急』のバックパッカーさながら、ヒッチハイクや徒歩、そしてJRを乗り継いでの旅は旅情に溢れ、偶然とは思えないような旅中での人たちとの出会いと縁が今に続いていた。弟子屈でのとっておきの思い出話としては摩周湖に行ったときのこと。落し物らしき封筒を拾い、中を見ると1万円が同封されていた。当時の一万円は、しかも学生の身分だったSさんにしたらひどく大金だったので警察に届けた。しばらく時間が経っても遺失主が現れずSさんに所有権が移譲されたのだが、Sさんは全部貰うことをせずに半分を弟子屈町に寄付したと言う。話はそこで終わらず、その後に当時の弟子屈町長からお礼状やカレンダー、弟子屈町の物産物諸々が届けられた、という何ともこころ暖まるエピソードに町民としてSさんにも当時の町長にも感謝の念を懐いた。情報端末の進歩によって移動間の時間の無駄や人を介した手筈のコスパの悪さなどを極力排する手段が整っている今では、そんな旅の愉しみさえも変化しつつある。Sさんの言葉によって時間が巻き戻され、南国で私がまだ学校にも行かない年嵩の頃の摩周湖や弟子屈の風景や風土はどんな様子であったのだろう・・・と今更ながら図書館から町史を借りてきて読み始めている。


2025-01-03

余命から天命に接して

Y子のお父さんが逝去された。冬至の頃の彼女の誕生日を過ぎた3日後のことだった。すぐに駆けつけることができない私に変わって実家の母がお悔やみに行ってくれた。病気療養中で一人暮らしのお父さんを彼女は行き来しながら支えていた。ふるさとの遠縁や知人の訃報に接するとき、私の中の記憶が地元を離れたときから更新されていないままであるせいか、ピントが合わない現実と疎外感がないまぜになる。6年前に突如父が亡くなったときでさえ、悲しみと後悔はずいぶん後になってから押し寄せた。実家に電話するたびに父は地元でのY子の活躍ぶりをうれしそうに語った。物怖じしがちな私とは違い、勉強も運動もできハキハキものを言える天真爛漫な子供時代のY子のままに変わらず情を注ぐようにして我が娘の如く話をした。学歴の有無や財産の有無、そして身分の高低など全く気にせず、純粋な自信に裏打ちされた明るさで四六時中機嫌よく自他と接する父についてゆけないところがあった。高校入学と同時に家を出た私は、ずいぶん長い間父のことを誤解していた。教養も語彙も豊富で社会的な責任ある肩書もあるY子は、そんな私の父をまっすぐ理解し好意的なまなざしを向けてくれていた。父の死後、彼女を介し父への誤解が溶けた部分もあったり、父とY子に共通する物事を複雑にしない良い意味での単純でストレートな素質に知らずのうちに守られていたのは私の方であるかもしれないことに、またしても自身の気づきの鈍さに愕然とする。お父さんが日に日に衰弱していかれるとき、そして天寿をまっとうされた今もなお悲しみを深くしていることだろうY子に父が生きていたら何と語りかけるのだろう、と父の声に耳をすます。


2024-12-08

自然と暮らし

手ぬぐいタオルと石鹸1個だけでお風呂に向かうSさんを見て、美留和に移り住んだ頃の自分たちのことを思い出した。浄化槽に流れ出て行く生活排水の生分解性に気を配ったのは夏の蛍の多さに驚き清流を目の当たりにしたことはもちろん、今でもそうだが、石鹸を作る会社に家人の幼馴染が勤めていたからという理由も大きかった。石鹸タイプのシャンプーはそれまでの合成シャンプーの成分が落ちないと泡立ちにくいことに加え、頭皮と髪が健やかに落ち着くまで人によっては扱いにくいということもあって、いつしか香料、着色なしではあるが合成の界面活性剤などを含むタイプの製品に変えてしまった。あれから20年以上経過して、今年の夏も2匹がつがいのように飛んでいるのを見つけただけでほとんどの蛍が姿を消してしまったのは、合成洗剤からの排水だけの問題ではないにしろ、暮らしの中のひとつひとつの選択や暮らし方全体の見なおしを我が家の喫緊の課題にあげていたこともあって、30年以上も有機農業を生業として、狩りもするSさんの「農業には矛盾がなくて、何より暮らしが心地よい」(心地よい暮らしをしたいがために有機農業をやっているようなもの)の一言の重みと含蓄深さにしみじみとした。今や災害から気候変動まで何かと免れないだろうに、そんな困難や苦労が表立って滲んでいるような様子は見あたらず、不思議と自然体で喜びと強さにあふれていた。5人のお子さんの誕生に際し、夫婦二人だけでの分娩、出産を選択したことは「ごく自然なことで、牛の子を何度も取り上げた経験もあったし、妊婦の年齢や健康状態から大丈夫だと思ってのこと、楽しいお産だった」と言う。有機農業を起業する目的で本州から北海道に渡って来られるまでの、そして、それまでの知識の構築と実践、経験あってこその生業と暮らしの延長線上にあるお産であったことには違いない。ここ美留和にて、身の丈に見合う心地よい暮らしの模索の中にある者にとって、まるで日照りに雨のような稀有な秘話としてこころに深く刻んだ。