2023-01-07

蔵の本や

大晦日、三が日と予定を反故にして何よりもまず義父の身辺の清潔を取り戻すことに取りかかった。介護する方もされる方も共に新米で、とりわけ私たちは気ばかりが張って頭はあまり働かず、手を動かし体を動かした。高齢ではあるが「泣く子どころかヤクザも刑事も黙るお義父さん」と茶化してしまえるほど威勢の良さが持ち前の姿は、転んで左半身を痛めてしまったことで老いが急速に助長されたかのようにここ1~2週間ですっかり弱ってしまっていた。東洋医学と陰陽太極鍼を応用して体をさすってみたり、家人に至っては自らトレーニングパンツを身に着け、履き心地や蒸れ具合を確認しながら1日を過ごしたりもした。三が日が過ぎる頃になってようやく先送りしていた義母のお墓参りに出かけた。家人の通っていた幼稚園跡からジグザグに遠回りをして寺町通の家康、宮本武蔵ゆかりの徳願寺を巡った。途中、蔵を改装したという新しい古書店に立ち寄った。数名の古書の持ち主ごとにコーナー分けされ、それぞれにこだわりや思いのかかった本が展示してあった。時を忘れ次から次へと背表紙を目で追った。店主の、池波正太郎が生誕100周年であるという案内をきっかけに話を交わしているうち共通の知人がいることが分かった。地元の消防団員で、四半世紀以上も前の小型ポンプ操法の大会に出場した4名で構成されるメンバーのうちの一人。彼は指揮者で家人は1番隊員だった。結婚したばかりの私は初めて見る消防団員たちの切れある所作や動作に感心し、おもしろがって飽きずに練習を見学した。後日その店主よりメールを頂き、指揮者の彼が大会出場のことを懐かしがっていたこと、そしてあのときの優勝が「20分団のレジェンド」として語り草になっているという微笑ましい挿話を知らせて下さった。優勝を祝う打ち上げの寿司屋で、質朴で気取りない男たちが酒を飲みかわす場所に居合わせた当時のことを幸福な出来事として思い出した。
蔵の古書店との出会いによって思いもかけず、まるで小さな旅気分が運ばれ年末からなかなかほぐし切れずにいた心身の風通しを良くした。


2022-12-11

「おひとつお選び下さい」

茹で上げのうどんに黄身と生醤油をかけてあつあつをかきこむように食すのが「作法」で、それが醍醐味で旨いという「ぶっかけうどん」はうどん文化の根付く香川県の古い友人に教えられた。この時季、我が家の食卓にのぼる家人の好物である。東洋医学で言うところの「腎陽虚」体質の持ち主の塩分摂取は多少大目に見ても、頻繁のうどんときたらやはり気が引け、思い切り減塩し手打ちしたとしても三食どころかおやつにしてもいいと言う。日頃厨房を仕切る家人にとって「人様に作って頂くものは何でも美味しい」と言うことも手伝ってそれならと選手交代を買って台所に立つ。美食でも凝った料理でもない素人の料理は思い出の味としての品々。昔に比べ食材の質の劣化はやむを得ないとしても心身のバランスを司る五感に何かしら働きかけ気血を巡らし記憶も巡らす。
先日、親子丼を食べているときにふと思い出したという母の料理、義母は鶏肉の代わりに豚ミンチ肉の卵とじも作っていて、しかも、大きなフライパンで1度に3~4食分作っていたのだそうだ。好物寄せ集めメニューにまたひとつ母の味として「ミンチ丼」が加わった。


2022-11-20

「モノ」

電化製品に不具合が生じると町の電器屋さんに修理をお願いし、新しく入手する際もその店の取り扱い商品から選んで購入しているという老女は「いいね」や星の数はもちろん、ネット上での価格比較やポイント還元が後押しする購入とは無関係の地元の商店からほぼ暮らしに必要な品々を調達している。書籍に関しても同様で、しかし書店と言っても分野や作家ごとに書籍が並べられたり平積みされているわけではなく地元の子供たちが使うための鉛筆やノート、ドリル類などの文房具が置いてあるような店構えで、書籍に関しては基本、注文発注になる。届いてみて手にした商品(書籍)が期待通りでなくても、あるいは自分の目利きに間違いがあって、作家や編集者、作り手たちの姿勢、その本が生み出されるまでに至る来歴や背景をも考慮したうえでの判断を仮に外したとしても、優劣の単純なレッテル貼りを逸らす本であれば買い物の失敗の仕様がない。そういうわけで老女にならって、書籍は町の書店から買うことにした。美留和に移り住んで21年来、決まって年に1回だけ図書券、図書カードを購入する以外にその店に立ち寄ることはなかった。注文の手間暇よりも届くまでにも時間がかかって心配したが便利不便、損か得とは別の、私にとって価値あるモノの所有の手続きとしては見合っているようにも思えた。



届いた画集の全体的な色味と質感は、おおよそ新しいものが見当たらない老女宅の採光に混じり入る30年以上前の製品とおぼしきラジオから放たれるノイズ込みの音を思い出させた。その光と音は、彼女の言葉でいう「いかれポンチ」になっていてもう部品が手に入らず、手持ちの道具と材料で仮に直してある外国製のドアノブのおかげで閉じ込められることがない。時々いかれポンチになるらしいレコードを聴くための大きなオーディオセットも今のところ救われているようだ。多少不細工であってもどうにか生き返らせようとする老女のこころのありように大切なことを教えられる。