2019-09-29

中陰

少年Jは1輪の白い切り花を握りしめたまま彼のおでこをその人の冷たいおでこにしばらく重ねていた。ほんの10数年前の、Jが誕生したばかりの玉のような赤んぼうだった頃、その人が壊れものを扱うように顔を寄せ、ほおずりをしていた分のお返しをするかのように。
ユリ、トルコキキョウ、カサブランカ、菊、カーネーション、スプレーマム、リンドウ、ケイトソウ、グラジオラス、デルフィニウム・・・おひとりおひとりの手によって添えられた生花をまとうその人を目の当たりにし、初めて本当の姿を知る思いがした。50数年前の初秋の頃、長女の誕生を迎えて若い父親になったばかりのその人の胸に抱かれていたであろう赤んぼうの幸福を、時を超えて深く思う。

網膜に焼きついた少年Jの別れの自然なしぐさは、いつかの、誰かの、皆の、光の記憶として繋いでおきたい。


2019-08-13

クマさんのように

例年になく今年はクマの目撃情報が多いという。
実際に出くわしたことがないからなのか、物語や神話に出てくるイメージが強いからなのか、気をつけるよう伝えて下さる方との温度差を埋められないまま先日ふと目にした熊の語源にまつわる話を思い出していた。
自然の「然」が熊や犬の脂肉を燃やすことを示し、「然」は「燃」の原字であるということも生き物の根源を想起させ興味深いのだが、能力の「能」が本来、熊を意味し、「熊のように粘り強い」や「熊の肉のように粘り強く燃える」から「物事をなしうる」という意味が生じたのだという。短い今年の夏休みは、3000年以上も前の人々が込めた思いを漢字に読みとり、そのピントで物ごとを捉えなおしたときの気持ちや思考の変容とも言える内面の小さな旅が続いた。そんな旅の終わりに届いた、研究者であり教員でもあるとある友人からのメールの、常に若い人たちへ向けているというメッセージをあらたに受け止めた。

「自分のセンスと能力を信じよ、自分の価値観で物事にプライオリティをつけよ、覚悟して自分で決断せよ、その結果を引き受けよ、間違っていると思ったら別の選択肢を考えよ。」

もう全然若くはない身の丈で彼女のメッセージを編みなおし、年と共に次第に動かなくなっていくであろう身体を持て余しつつ不安や不快をも友に孤独と自足を身につけ備えておきたい、まだまだ元気なうちに。


2019-03-24

産みのおやはお父さん

パンダの赤ちゃんがやってきた。名前は身もふたもなく康康(カンカン)の子供ということで小康(コヤス)。
生き物でもなんでも小さいものはかわいらしいものだが、”この子を彫っている間はいつになく楽しかったなー”
と、木彫り人の素朴な物言いに思わず笑みが零れる。

産後の肥立ちがあまり悪くならないうちに痛めた利き手の親指側の筋を辿って素人にも探りやすい合谷やさらに辿った先の手三里と呼ばれる経穴(ツボ)の周辺をほぐす。ふかふかした掌は育児嚢を思わせ、ぬくもりは産みの父さんと赤ちゃんパンダさんの幸福な時間の事蹟のようにも思え宝ものに触れるかのようにお手当した。

春先の陽光が生きものたちや植物を目覚めさせるように、人どうしの係わり合いの中で生まれる何かが身体の奥底に未だ眠ったままの健やかさや笑みの芽に届くとするならば、それらの芽を自身でどのように育てるのか、あるいはふさわしくない芽は摘取ってしまうほどの力と潔さを備えたいものだ。コヤスがやってきたこの春先の門出には特別な思いが重なる。