2017-06-23

おすそわけ

ご近所さまから手作りのお味噌を頂く。
しばらくするとウドとアスパラが届く。
また別口で手作りのベーコンとソーセージを頂く。

手作りのものは、当たり前だが保存料はさることながら
人工の調味料などもわざわざ添加してないシンプルさが
体ばかりか気持ちにも気楽。
単純に美味しい。

まだ小さかった頃、祖母の作るものは食べ物にかかわらず、
手作りが当たり前だった。
当時は暮らすことに手間と時間がかかった。
いつしか保存料などを添加した加工食品が流通するようになり
家事の手間暇を省ける便利さを選択すると同時に
経済にも奉仕することとなった。

今やどこか歪んでしまった食べ物が普通となって
質・量ともに身体と神経(精神)に余る。

過剰が引き起こす不穏な何かにうすうす勘づきはじめてはいても
迷惑込のありがたさと便利さから距離を置くことや
いったん身についた慣れを是正していくことは
なかなか容易ではない。

そんなあれこれを思わせる「手作りの品」の贈り主は
みなさん20~30年上の世代の方々。

世代の違う友人との交流を重ねて
その関係がいつしか家族とは異なる気さくさのなかで
ようやく気づくことや
あらためて気づかされることの多いこの頃。

親、弟妹、ごく身近な家族への認識から
おおげさに言えば社会や世界に対しての一個人の認識が
もしかしたら歪み、どれだけ狭く限定され、
しかも表層的であるかということ。

味覚にしても、言葉にしても、受け止め方や認識にしても、価値観でさえも
善悪を超えて「ところかわればしなかわる」ということだ。


いま流行りの「オルタナ・ファクト」ではないが
あたかも「オルタナ・フード」に化けた商品としての食べ物と
素朴なただの食べ物がまだかろうじて在るとすれば
地味な手作りの品に身銭を切りたいものだと思う機会をも合わせ
おすそわけして頂いている。


2017-01-14

迷子のコトバたち

届けられた大きく細長い包みを開封すると
懐かしい筆跡が現れた。

書家や詩人ならともかくも
荒唐無稽ぶりを知る、
またそのとばっちりをかわしてきた身内としては
よくもまあ、こんな言葉を掲げられたものだ・・・
と本音をポコリ呟くのが早いか
でも悲しいかな、
どう身内を振回しているのかなんてことの
意識を持てないのだから「身の程知らず」と言うことにしてあげよう・・・
など気持ちのおさまりどころを探しているうち
35年以上も前の幼いころの尺度で判断してしまっている我が身を
思わず苦笑い。

本家本元の「西郷(せご)どん」が生きた時代から150年を経た今、
とくに昨今、多くのまっとうなのコトバは根が削がれ、さまよっている。

そう遠くない将来
反故に、根絶やしに、化石(死語)になってしまうのだろうか・・・。

いやいや、忍び寄る不穏さをものとせずに
白々しく、擦れっ枯らしさをも合わせもち
座りのよくない言葉として
私たちを照らし続けるにちがいない。

西郷どんが先人たちの犠牲と悔恨を想い
丸腰の普遍の価値をこの言葉に、後世に託した・・・
としたのならなおのこと。

でも、いつの時代も市井の人は
とりたて意識して掲げることをしなくとも
根っこのある日常の言葉を用い
普通に暮らしていた(いる)ことを忘れないでおこう。


2016-12-10

雪ぼうし

いそいそと支度して
氷点下に舞う上質な粉雪を歓迎し
閉めに雪だるままでこしらえるという
雪遊びついでの除雪は
わずか十数年前だというのに
いつのまにやらまるまる1日にかけて取り組む
大仕事となった。

身体の変化なのか、単に心持ちの変化なのか
あるいは生活習慣からくるしわよせなのか・・・
心身の劣化とは見分けがつけがたい
うっかりの習慣からくる退化だとしたら
無駄と思いはしても抵抗しますからね
と独り言つ。

遊ぶゆとりが遠ざかってしまったことに
がっかりしそうになりながらも

 ♪雪やこんこ、あられやこんこ♪

と子どもたちで外に駆け出し、
葉っぱの湿雪に練乳をかけて食してみるほど
南国育ちの雪への憧れがいまだにひょいと顔を出すのか
雪ぼうしの外灯に淡い思いを寄せる。