2017-11-24

遠く近く、古く新しく、の往来

目覚めたとき、生暖かく湿り気のある空気に
身体なのか感覚なのか、どこかの焦点が定まらないまま
いったいここがどこなのか分からなくなった。

昨晩、霙ではなく雨粒が屋根を弾く音が夜通し響いていたことを思い出し
外を見ると凍結してまだ日の浅かった冬の風景は一夜にして
再び晩秋に引き戻された。
しかし、また深夜に雪の予報とのことで季節は行ったり来たり。



卒業後初めての小学6年生時の同窓会開催の知らせに
時間の行ったり来たりがうまくいかず、やや行ったっきりの状態で
ここ数日過ごしている。

具体的な背後のいきさつは思い出せないのだが
担任の先生が皆に一篇の詩を引きあわせて下さった。
あとになってそれがあの『智恵子抄』の高村光太郎の詩であったこと、
さらにその後だいぶ大人になって、その詩人は彫刻家でもあり
戦争の時代を生きた人であったということも知る。

もちろん6年生時には、詩のことばそのものを素直に受け止め
当時の身の丈で理解したことにはちがいない。
その後何かの折に触れ、この詩人の作品に出会うことがあり
ことばがいつの時代に、どの立ち位置で発せられるのかによっても
また、それを受けとる読み手の時代と立ち位置、ひいては体調によっても
見え方が随分違ってくることも知った。
ことばが投げかけられる対象との関係性の距離や度合いが
ことばに濃淡を添えることも知った。

ことばと言えば、小学1年生の担任だった先生が
卒業式の日に贈って下さったものも
先生の私に向けての一篇の詩だった。



あれこれ思いを巡らせているうちに
記憶の凍結までも緩んだのかどうか、
わけもなく突然、思ってもみなかった
そんなに親しくした覚えのない友達の名前まで浮上する。
きれぎれの不意打ちに足元がすくわれるようなこころもとなさを伴いながらも
自分を含めた子ども皆の当時の時代を慈しむ思いが芽生える。


2017-09-28

美留和のひと

美留和の「アン」と呼んでいるお隣さんとの
おしゃべりに花が咲く。
美留和の「ハイジ」と呼んでいる友人との
おしゃべりには花畑が広がる。

いつしか日の入りが速くなり、雪虫が飛ぶようになると
アンとのあいさつにはきまって
冬の暖房や除雪でお困りの際は・・・など
つい要らぬおせっかいが口から飛び出る。
冬の1日かけて行う除雪が日頃の運動不足解消になるから
今年も出来るところまではご自分でやることにするのだそう。

ハイジの庭には薪にする木がズドンと運ばれた。
庭や畑の手入れ、収穫に加え薪を割る作業が加わる。
せっせと、手足を、こころを自然や大地に砕く。

美留和の「アインシュタイン」と呼ぶご近所さんは
庭仕事や家の周りの修繕など常に体を動かしておられる。


手足やこころを、生きるエネルギーを同じく使うのであれば
この美留和の老女、老男の健康の、気持ちの自給自足(自律・自立)ともいえる
お姿に倣いたいものだと思う。

そお言えば、近頃木彫りを始めた家人。
性に合うのか、お昼寝返上で子どものように夢中。

暇つぶしでも、遊びにしても何にしても
木を彫ることに手が使われることは幸いだ。

密やかに美留和の「木彫りびと」と呼んでいる。


2017-06-23

おすそわけ

ご近所さまから手作りのお味噌を頂く。
しばらくするとウドとアスパラが届く。
また別口で手作りのベーコンとソーセージを頂く。

手作りのものは、当たり前だが保存料はさることながら
人工の調味料などもわざわざ添加してないシンプルさが
体ばかりか気持ちにも気楽。
単純に美味しい。

まだ小さかった頃、祖母の作るものは食べ物にかかわらず、
手作りが当たり前だった。
当時は暮らすことに手間と時間がかかった。
いつしか保存料などを添加した加工食品が流通するようになり
家事の手間暇を省ける便利さを選択すると同時に
経済にも奉仕することとなった。

今やどこか歪んでしまった食べ物が普通となって
質・量ともに身体と神経(精神)に余る。

過剰が引き起こす不穏な何かにうすうす勘づきはじめてはいても
迷惑込のありがたさと便利さから距離を置くことや
いったん身についた慣れを是正していくことは
なかなか容易ではない。

そんなあれこれを思わせる「手作りの品」の贈り主は
みなさん20~30年上の世代の方々。

世代の違う友人との交流を重ねて
その関係がいつしか家族とは異なる気さくさのなかで
ようやく気づくことや
あらためて気づかされることの多いこの頃。

親、弟妹、ごく身近な家族への認識から
おおげさに言えば社会や世界に対しての一個人の認識が
もしかしたら歪み、どれだけ狭く限定され、
しかも表層的であるかということ。

味覚にしても、言葉にしても、受け止め方や認識にしても、価値観でさえも
善悪を超えて「ところかわればしなかわる」ということだ。


いま流行りの「オルタナ・ファクト」ではないが
あたかも「オルタナ・フード」に化けた商品としての食べ物と
素朴なただの食べ物がまだかろうじて在るとすれば
地味な手作りの品に身銭を切りたいものだと思う機会をも合わせ
おすそわけして頂いている。