2017-01-14

迷子のコトバたち

届けられた大きく細長い包みを開封すると
懐かしい筆跡が現れた。

書家や詩人ならともかくも
荒唐無稽ぶりを知る、
またそのとばっちりをかわしてきた身内としては
よくもまあ、こんな言葉を掲げられたものだ・・・
と本音をポコリ呟くのが早いか
でも悲しいかな、
どう身内を振回しているのかなんてことの
意識を持てないのだから「身の程知らず」と言うことにしてあげよう・・・
など気持ちのおさまりどころを探しているうち
35年以上も前の幼いころの尺度で判断してしまっている我が身を
思わず苦笑い。

本家本元の「西郷(せご)どん」が生きた時代から150年を経た今、
とくに昨今、多くのまっとうなのコトバは根が削がれ、さまよっている。

そう遠くない将来
反故に、根絶やしに、化石(死語)になってしまうのだろうか・・・。

いやいや、忍び寄る不穏さをものとせずに
白々しく、擦れっ枯らしさをも合わせもち
座りのよくない言葉として
私たちを照らし続けるにちがいない。

西郷どんが先人たちの犠牲と悔恨を想い
丸腰の普遍の価値をこの言葉に、後世に託した・・・
としたのならなおのこと。

でも、いつの時代も市井の人は
とりたて意識して掲げることをしなくとも
根っこのある日常の言葉を用い
普通に暮らしていた(いる)ことを忘れないでおこう。


2016-12-10

雪ぼうし

いそいそと支度して
氷点下に舞う上質な粉雪を歓迎し
閉めに雪だるままでこしらえるという
雪遊びついでの除雪は
わずか十数年前だというのに
いつのまにやらまるまる1日にかけて取り組む
大仕事となった。

身体の変化なのか、単に心持ちの変化なのか
あるいは生活習慣からくるしわよせなのか・・・
心身の劣化とは見分けがつけがたい
うっかりの習慣からくる退化だとしたら
無駄と思いはしても抵抗しますからね
と独り言つ。

遊ぶゆとりが遠ざかってしまったことに
がっかりしそうになりながらも

 ♪雪やこんこ、あられやこんこ♪

と子どもたちで外に駆け出し、
葉っぱの湿雪に練乳をかけて食してみるほど
南国育ちの雪への憧れがいまだにひょいと顔を出すのか
雪ぼうしの外灯に淡い思いを寄せる。


2016-10-01

お菓子やさん、本やさん、パンやさん、豆腐やさん・・・
花やさんにもなってみたい(みたかった)生業。

お祝い、お悔み、お見舞い、感謝など
節目節目に花に気持ちを託すときの取り成し役。

お見舞いには元気が出る色とされるオレンジや黄色の花がよく使われるらしいのだが
ハローキティが好きな彼女にはピンクや白の花がふさわしい!という思いが離れず
花材を揃え「とびっきりかわいいのにしますね!」
と、ただの商いに収まることなく、こちら側の依頼を汲みつくし
しかも病室にまで届けて下さるとのこと、
思ってもみなかったはからいに花に託す思いに感動が重なる。

そんなお花やさんの心意気に触れたとき
「花より団子」に傾きがちなふるまいに水がさされる。
人が健やかで康らかに生きるにはたくさんでなくてもよいから
花も団子もあったほうがいい。

ところで、顔見知り程度の間柄でお花を頂くとき
素直な喜びよりも戸惑いの方が先立つ。
けれども花々たちを咎める筋合いはなく
花に「儀礼」をも負わせていることにあらためて気づく。
花のたたずまいを前に人の都合なんてちっぽけでけちなものに思え
恥ずかしい思いにさえとらわれる。

ただ花を眺め、花を愛でるひとときが
このうえない贅沢だと思えるなんて(少なくとも団子と甲乙つけがたい)
子どもの頃には知りえなかった。