2017-09-28
美留和のひと
美留和の「アン」と呼んでいるお隣さんとの
おしゃべりに花が咲く。
美留和の「ハイジ」と呼んでいる友人との
おしゃべりには花畑が広がる。
いつしか日の入りが速くなり、雪虫が飛ぶようになると
アンとのあいさつにはきまって
冬の暖房や除雪でお困りの際は・・・など
つい要らぬおせっかいが口から飛び出る。
冬の1日かけて行う除雪が日頃の運動不足解消になるから
今年も出来るところまではご自分でやることにするのだそう。
ハイジの庭には薪にする木がズドンと運ばれた。
庭や畑の手入れ、収穫に加え薪を割る作業が加わる。
せっせと、手足を、こころを自然や大地に砕く。
美留和の「アインシュタイン」と呼ぶご近所さんは
庭仕事や家の周りの修繕など常に体を動かしておられる。
手足やこころを、生きるエネルギーを同じく使うのであれば
この美留和の老女、老男の健康の、気持ちの自給自足(自律・自立)ともいえる
お姿に倣いたいものだと思う。
そお言えば、近頃木彫りを始めた家人。
性に合うのか、お昼寝返上で子どものように夢中。
暇つぶしでも、遊びにしても何にしても
木を彫ることに手が使われることは幸いだ。
密やかに美留和の「木彫りびと」と呼んでいる。


2017-06-23
おすそわけ
ご近所さまから手作りのお味噌を頂く。
しばらくするとウドとアスパラが届く。
また別口で手作りのベーコンとソーセージを頂く。
手作りのものは、当たり前だが保存料はさることながら
人工の調味料などもわざわざ添加してないシンプルさが
体ばかりか気持ちにも気楽。
単純に美味しい。
まだ小さかった頃、祖母の作るものは食べ物にかかわらず、
手作りが当たり前だった。
当時は暮らすことに手間と時間がかかった。
いつしか保存料などを添加した加工食品が流通するようになり
家事の手間暇を省ける便利さを選択すると同時に
経済にも奉仕することとなった。
今やどこか歪んでしまった食べ物が普通となって
質・量ともに身体と神経(精神)に余る。
過剰が引き起こす不穏な何かにうすうす勘づきはじめてはいても
迷惑込のありがたさと便利さから距離を置くことや
いったん身についた慣れを是正していくことは
なかなか容易ではない。
そんなあれこれを思わせる「手作りの品」の贈り主は
みなさん20~30年上の世代の方々。
世代の違う友人との交流を重ねて
その関係がいつしか家族とは異なる気さくさのなかで
ようやく気づくことや
あらためて気づかされることの多いこの頃。
親、弟妹、ごく身近な家族への認識から
おおげさに言えば社会や世界に対しての一個人の認識が
もしかしたら歪み、どれだけ狭く限定され、
しかも表層的であるかということ。
味覚にしても、言葉にしても、受け止め方や認識にしても、価値観でさえも
善悪を超えて「ところかわればしなかわる」ということだ。
いま流行りの「オルタナ・ファクト」ではないが
あたかも「オルタナ・フード」に化けた商品としての食べ物と
素朴なただの食べ物がまだかろうじて在るとすれば
地味な手作りの品に身銭を切りたいものだと思う機会をも合わせ
おすそわけして頂いている。

2017-01-14
迷子のコトバたち
届けられた大きく細長い包みを開封すると
懐かしい筆跡が現れた。
書家や詩人ならともかくも
荒唐無稽ぶりを知る、
またそのとばっちりをかわしてきた身内としては
よくもまあ、こんな言葉を掲げられたものだ・・・
と本音をポコリ呟くのが早いか
でも悲しいかな、
どう身内を振回しているのかなんてことの
意識を持てないのだから「身の程知らず」と言うことにしてあげよう・・・
など気持ちのおさまりどころを探しているうち
35年以上も前の幼いころの尺度で判断してしまっている我が身を
思わず苦笑い。
本家本元の「西郷(せご)どん」が生きた時代から150年を経た今、
とくに昨今、多くのまっとうなのコトバは根が削がれ、さまよっている。
そう遠くない将来
反故に、根絶やしに、化石(死語)になってしまうのだろうか・・・。
いやいや、忍び寄る不穏さをものとせずに
白々しく、擦れっ枯らしさをも合わせもち
座りのよくない言葉として
私たちを照らし続けるにちがいない。
西郷どんが先人たちの犠牲と悔恨を想い
丸腰の普遍の価値をこの言葉に、後世に託した・・・
としたのならなおのこと。
でも、いつの時代も市井の人は
とりたて意識して掲げることをしなくとも
根っこのある日常の言葉を用い
普通に暮らしていた(いる)ことを忘れないでおこう。
