2015-09-15

美留和の湿原には秋の草花が色々をつけるようになった。
この前まで、蝉のどこかしら疳の虫に取り憑かれてしまったような鳴き方に落ち着かなかった耳に
いつしか草花の中から秋の虫の音が届くようになった。

巡る季節の度に色んな草花を目にしているのだが名前を知っているのはほんのわずか。
ヒロハクサフジ、ホソバウンラン、コスモス、エゾトリカブト、エゾオヤマリンドウ、セイヨウノコギリソウ、
イヌタデ、エゾトウウチソウ、エゾヤマハギ、ヒメジョオン・・・・。
多様多種の植物が濃い密度でどこまでも広がり、自然のしたたかさに茫然としてしまう。

宿にもそのとき限りで花が咲くことがある。
先日のお客様は元女子高生の5人組さま(ホントは6人組さまでお一人欠席)。
卒業して〇〇年。夜遅くまで笑い声が絶えなかった。

〇〇年経っても・・・数十年ぶりに会っても・・・
高校時代のニックネームが飛び交うひとときは
傍にいる者にさえ笑みを運んでくる。

お孫さんを持つような年齢を迎え、おのずと体ばかりでなくこころも劣化していくなかで
人知れずそれぞれにきっといろんなご苦労やお悩みはつきものなのだろうが
そんなこと忘れてしまったかのような陽気につつまれて
かわいらしい花がたくさん咲いた。


また、ほかのお客様は実際に目にしたことはないのに「ミモザ」の花と重なった。
おそらく80代前半であろうかと思われるご高齢のご夫婦の、
何とも言えない控えめでゆったりとしたふるまいになぜかミモザ。

グラスワインを注文され、背中のかがめ具合がお二人そっくりで
スープのスプーンを手前から奥に向かって動かし、
音を立てずお召し上がりになっているふるまいに心魅かれたからかもしれない。
外国人のような長身のおもかげを残すお二人の背中に見とれてしまい
ミモザの花束を贈りたい衝動に駆られた。


イタリアに、男性が日頃の感謝を込め身近な女性たちにミモザの花を贈る習慣があるのだが、
この季節が巡るたび、美留和の原野を黄色く染める花を勝手にミモザに重ねていて
それが「セイタカアワダチソウ」という名前であることを知ったはつい昨日のことだ。


2015-05-09

ほころび

例年より10日ほども早く、見渡す山々のところどころに
蝦夷桜が淡く色づいているのに気づいたのが昨日のこと。
早朝、庭の若い辛夷の木にふわんとした蕾を見つけ、
不意を衝いて去る季節においてきぼりをくらったような戸惑いと、
そんな気おくれなどジャンプしてしまう辛夷の蕾の招きにほころぶ。
ほんの数時間のうちに開花した。

つい1年前の春先にも、それまでの春先にも毎年同じ驚きと戸惑いを繰り返してきたはずだが、
今年のそれは特別で、ずいぶんしばらくぶりのように思えた。
「花が咲く」ことや花の存在すら記憶からすっぽり抜け落ちてしまっていたことは長かった冬のせいなのか、
こちら側の内面に問題が生じているのか分からず茫然としているうち、
辛夷の香りが忘れていたことを思い起こす呼び水となった。

幸いにして辛夷に連なる記憶は気持ちがほんわりするものばかりで、
たった今も花のほころびが内面のほころび(劣化)を軽やかにしている。


2014-12-29

暮れ

新しい年を迎えようとする数日は
ふだん静かでひかえめな町の商店も
何かに吸い寄せ集められたかのように季節の食材と人でにぎわう。
その一方で知人の、友人のご家族、遠縁の誰かかれかの逝去の知らせも集まる。
永眠のその日は年が明けたばかりの春先だったり、夏だったり、ついこの間だったりと、
町のにぎやかさとは交わることのない
しんとした空白がぽっかり占める年の暮れでもある。

相変わらずとばかり思っている身内の声が、
何気ないしぐさが、体そのものが、急にしぼんで見え聞こえしたとき
あらためて指折り齢を確認する。
ふいを衝かれ、時と場を含む肉親との隔たりに茫然とする。
遠く離れてゆく隔たりを無理に埋めようとせず、
いつまでもその人らしくあってほしいという思いは
いったいどのようにすれば届くのだろう。
私がこの世にやってくるとき恐らくその人は、
洗練された優しさや祈りといったようなものからは程遠い
ただ無償の思いとでもいえるおおらかさで包んでくれたのではなかったか。
そんな心意気にはとても及ぶものではないことを今更ながら分かり始めたいま、
かつてその人が乱暴とも思える無骨なやり方で示したあれこれが
かたちを帯び、ようやく言葉になって現れてくる。