2015-05-09

ほころび

例年より10日ほども早く、見渡す山々のところどころに
蝦夷桜が淡く色づいているのに気づいたのが昨日のこと。
早朝、庭の若い辛夷の木にふわんとした蕾を見つけ、
不意を衝いて去る季節においてきぼりをくらったような戸惑いと、
そんな気おくれなどジャンプしてしまう辛夷の蕾の招きにほころぶ。
ほんの数時間のうちに開花した。

つい1年前の春先にも、それまでの春先にも毎年同じ驚きと戸惑いを繰り返してきたはずだが、
今年のそれは特別で、ずいぶんしばらくぶりのように思えた。
「花が咲く」ことや花の存在すら記憶からすっぽり抜け落ちてしまっていたことは長かった冬のせいなのか、
こちら側の内面に問題が生じているのか分からず茫然としているうち、
辛夷の香りが忘れていたことを思い起こす呼び水となった。

幸いにして辛夷に連なる記憶は気持ちがほんわりするものばかりで、
たった今も花のほころびが内面のほころび(劣化)を軽やかにしている。


2014-12-29

暮れ

新しい年を迎えようとする数日は
ふだん静かでひかえめな町の商店も
何かに吸い寄せ集められたかのように季節の食材と人でにぎわう。
その一方で知人の、友人のご家族、遠縁の誰かかれかの逝去の知らせも集まる。
永眠のその日は年が明けたばかりの春先だったり、夏だったり、ついこの間だったりと、
町のにぎやかさとは交わることのない
しんとした空白がぽっかり占める年の暮れでもある。

相変わらずとばかり思っている身内の声が、
何気ないしぐさが、体そのものが、急にしぼんで見え聞こえしたとき
あらためて指折り齢を確認する。
ふいを衝かれ、時と場を含む肉親との隔たりに茫然とする。
遠く離れてゆく隔たりを無理に埋めようとせず、
いつまでもその人らしくあってほしいという思いは
いったいどのようにすれば届くのだろう。
私がこの世にやってくるとき恐らくその人は、
洗練された優しさや祈りといったようなものからは程遠い
ただ無償の思いとでもいえるおおらかさで包んでくれたのではなかったか。
そんな心意気にはとても及ぶものではないことを今更ながら分かり始めたいま、
かつてその人が乱暴とも思える無骨なやり方で示したあれこれが
かたちを帯び、ようやく言葉になって現れてくる。


2014-04-30

生命の目覚め

雪を溶かしてしまうほどの陽気が到来した北の大地は、氷の世界下に時を閉じ込めた眠りから解かれ、
ようやくそれを実感する季節。どこもかしこからも目に、耳に、鼻に、肌に何らか の息吹の気配が訴える。
まるで、寝た子が起こされたかのように、こちら側の内面にある種の緊張を強いる。
にぎにぎしさでごった返し活気溢れる都会の、快感にピンポイントを絞った刺激とは違う、
快感も不快も渾然一体の感覚そのものを直に掴むような生々しさを伴い迫ってくるそれは身を構えさせる。
ほかの生きものたちもそれぞれのやり方で構えるのだろうか。
カエルは鳴く。うぐいすは謳う。鹿は呼ぶ。オオジシギは芸を披露する。
葉擦れは耳にささやく。風はからだをかける。
ふと、明治の頃の詩人 ─ 八木重吉 ─ のある一遍の詩を思い出した。

        さて、あかんぼは、なぜに、あんあんあんあん、
        泣くんだろか
        ほんとに、うるせいよ、あんあんあんあん、
        あんあんあんあん、うるさかないよ、
        うるさかないよ、よんでるんだよ、
        かみさまをよんでるんだよ、
        みんなもよびな、あんなにしつつこくよびな

生命の目覚めの時季は、生きものの原初の世界とでもいおうか
生きもの全ての存在そのものを表現する気配が、
さまざまな身の構えが満ち満ちている。今春の土のアイヌねぎも、
沢のクレソンも、あたりいっぱいにみずみずしさを放つ。