2013-12-30

命日

昨夜まとまった雪が降り一段と世の中が静まりかえる朝を迎えた。闇の一晩中荒れ続け、もがき狂った果てにたどり着いたかのうような静けさの、まっさらな雪で更新された光景は故人を偲ぶのにふさわしい。命の日と書いて命日。生死と背中合わせだが、生まれた日ではなく、命の日はむしろ亡くなった日であるかもしれないことをあらためて思いなおし、雪下に命の日が幾重にも複雑に折り重なり、巡り巡ってまた春先に生まれ、そして命をまっとうするだろう連鎖の蠢きにめまいがしそうになる。人は絶対に「死ねない」と言う。死ぬという行為に挑むことができたとしても、自分が死んだという確認は絶対できない、という意味において。故人もいつものお昼過ぎ、独りお茶を飲んでいる最中にうつぶしたまま亡くなったところを帰宅した家人に確認された。まさか自分が死ぬ・死んだなんて微塵も思う暇もなくお茶を飲みながら、文字通り、「永遠の眠り」についた。

「・・・まっさらの、ふんわり降り積もった雪上で、永遠の眠りにつく・・・」
美しい雪景色は、人を幻想に迷い込ませ、生死の境界をあいまいにし、魂を遠くへいざなう。そんな衝動のかけらと似たようなものが、敢えて冬山に挑む冒険心の中にもあるのだろうか。氷点下の平地にいることをまともに思い出すだけでも魅惑だけで挑めるほど甘くはないからきっと、常に生と死を意識しざるを得なくて、身体の火、あるいはこころの火を自身の力でつけることが求められる。となりの誰かは生死の境界までは手をのばせない。自然に委ねることも含めた他力と自力のせめぎ合いに身をおく。冒険家たちは、筆やコトバではない生身で、そんなリアルな生の現実を表現する芸術家なのだろう。氷点下の、ほとんどあらゆる生き物たちの気配のない一層と静寂のきわだつ朝の雪原に、ふと、うさぎの足跡を目に留めると、からだにぽっとかすかな灯がともった。


2012-08-16

蛍の光

今晩の気温や湿度を肌で感じながらお客様の朝食の時間から逆算し天然酵母パンの仕込みを終えると、厨房からホールに出る1枚の扉を隔てた、ひっそりと静まりかえる異空間に身を沈めるように消灯の準備にとりかかる。ふと、ホール中央の大窓を1枚隔てた向うの、さらに一層静けさの深まる暗闇の片隅に、ちらちらと震える小さな光が目を惹いた。ホタルの短い一生からすると、すっかりホタルの時季は過ぎたはずなのに、迷子になったホタルだろうか・・・としばらく眺める。停まって震え続ける光の具合から体の大きさを予測すると、多分ヘイケホタルの雌であろう。発光が求愛のしるしであると言われるが、雄とはぐれてしまったのだろうか・・・や、光り方が不器用な子なのだろうか・・・や、さらには心中でも約束した雄を待ち続けているのだろうか・・・、などついあれこれ下世話な、余計なお世話を焼きそうになる。発光が求愛のしるしだなんて、月夜がやたらと明るく思えるほど、いつもの暗闇の沢はホタルたちの恰好のデートスポットに違いない。昼夜問わず、場所どころか、もしかしたら求愛さえ問わなくなっているように思えて、ホタルたちの真っ当さから日々離れてしまうことがこころもとない。「蛍の光」は確かスコットランド民謡で、原詩は旧友と再会し、思い出話をしつつ酒を酌み交わすといった内容の「old long since(むかし、むかし)」だったはずだ。むかし、むかし、ヒトがまだ今のように言葉を話したり、文字を記録することが自明ではなかった頃、まだ動物との区別もなかった天真爛漫の自由の頃には、どのように求愛していたのだろう。

かろうじてかすかに映る写真の中の蛍

ある月夜


2009-09-23

高い空、風と光と彩りと

初秋の風が通り抜けるたび、木々の重なりの隙間を貫く落陽が辺りをキラキラと輝かせる風景に、なんて贅沢な風と光と景色なんだろう・・・と飽きずにこころ奪われる。紅(黄)葉の始まる季節の風が揺らす木漏れ日の時季の風景は、音楽と絵画と踊りがいっぺんにこころに届いてしまったかのような気持ちでいっぱいになる。自然の生命の循環の中で確実に存在しているこの風景の放つ質感のようなものは、人が作り出す音楽や絵画など、たくさんの文化を寄せ集めてもきっと埋め合わすことのできないくらい感覚に訴える力を持つ。この世に存在するまがいものでない本物、つまり、「自然」と呼ばれるもの、人間の身体もそうだから、私たちのもつ感覚の部分と自然は共鳴し合えるのだろう。身体の中の感覚が自然と文化の異なる次元を取り持つ媒介になっていることを思い出させてくれる秋の季節、成長から成熟の季節の在り方に少しでも近づけるよう、時の流れにこころを澄ます。

大窓から見渡す朝の風景

真っ先に紅(黄)葉し始めた紅葉の木