2014-12-29

暮れ

新しい年を迎えようとする数日は
ふだん静かでひかえめな町の商店も
何かに吸い寄せ集められたかのように季節の食材と人でにぎわう。
その一方で知人の、友人のご家族、遠縁の誰かかれかの逝去の知らせも集まる。
永眠のその日は年が明けたばかりの春先だったり、夏だったり、ついこの間だったりと、
町のにぎやかさとは交わることのない
しんとした空白がぽっかり占める年の暮れでもある。

相変わらずとばかり思っている身内の声が、
何気ないしぐさが、体そのものが、急にしぼんで見え聞こえしたとき
あらためて指折り齢を確認する。
ふいを衝かれ、時と場を含む肉親との隔たりに茫然とする。
遠く離れてゆく隔たりを無理に埋めようとせず、
いつまでもその人らしくあってほしいという思いは
いったいどのようにすれば届くのだろう。
私がこの世にやってくるとき恐らくその人は、
洗練された優しさや祈りといったようなものからは程遠い
ただ無償の思いとでもいえるおおらかさで包んでくれたのではなかったか。
そんな心意気にはとても及ぶものではないことを今更ながら分かり始めたいま、
かつてその人が乱暴とも思える無骨なやり方で示したあれこれが
かたちを帯び、ようやく言葉になって現れてくる。


2014-04-30

生命の目覚め

雪を溶かしてしまうほどの陽気が到来した北の大地は、氷の世界下に時を閉じ込めた眠りから解かれ、
ようやくそれを実感する季節。どこもかしこからも目に、耳に、鼻に、肌に何らか の息吹の気配が訴える。
まるで、寝た子が起こされたかのように、こちら側の内面にある種の緊張を強いる。
にぎにぎしさでごった返し活気溢れる都会の、快感にピンポイントを絞った刺激とは違う、
快感も不快も渾然一体の感覚そのものを直に掴むような生々しさを伴い迫ってくるそれは身を構えさせる。
ほかの生きものたちもそれぞれのやり方で構えるのだろうか。
カエルは鳴く。うぐいすは謳う。鹿は呼ぶ。オオジシギは芸を披露する。
葉擦れは耳にささやく。風はからだをかける。
ふと、明治の頃の詩人 ─ 八木重吉 ─ のある一遍の詩を思い出した。

        さて、あかんぼは、なぜに、あんあんあんあん、
        泣くんだろか
        ほんとに、うるせいよ、あんあんあんあん、
        あんあんあんあん、うるさかないよ、
        うるさかないよ、よんでるんだよ、
        かみさまをよんでるんだよ、
        みんなもよびな、あんなにしつつこくよびな

生命の目覚めの時季は、生きものの原初の世界とでもいおうか
生きもの全ての存在そのものを表現する気配が、
さまざまな身の構えが満ち満ちている。今春の土のアイヌねぎも、
沢のクレソンも、あたりいっぱいにみずみずしさを放つ。


2013-12-30

命日

昨夜まとまった雪が降り一段と世の中が静まりかえる朝を迎えた。闇の一晩中荒れ続け、もがき狂った果てにたどり着いたかのうような静けさの、まっさらな雪で更新された光景は故人を偲ぶのにふさわしい。命の日と書いて命日。生死と背中合わせだが、生まれた日ではなく、命の日はむしろ亡くなった日であるかもしれないことをあらためて思いなおし、雪下に命の日が幾重にも複雑に折り重なり、巡り巡ってまた春先に生まれ、そして命をまっとうするだろう連鎖の蠢きにめまいがしそうになる。人は絶対に「死ねない」と言う。死ぬという行為に挑むことができたとしても、自分が死んだという確認は絶対できない、という意味において。故人もいつものお昼過ぎ、独りお茶を飲んでいる最中にうつぶしたまま亡くなったところを帰宅した家人に確認された。まさか自分が死ぬ・死んだなんて微塵も思う暇もなくお茶を飲みながら、文字通り、「永遠の眠り」についた。

「・・・まっさらの、ふんわり降り積もった雪上で、永遠の眠りにつく・・・」
美しい雪景色は、人を幻想に迷い込ませ、生死の境界をあいまいにし、魂を遠くへいざなう。そんな衝動のかけらと似たようなものが、敢えて冬山に挑む冒険心の中にもあるのだろうか。氷点下の平地にいることをまともに思い出すだけでも魅惑だけで挑めるほど甘くはないからきっと、常に生と死を意識しざるを得なくて、身体の火、あるいはこころの火を自身の力でつけることが求められる。となりの誰かは生死の境界までは手をのばせない。自然に委ねることも含めた他力と自力のせめぎ合いに身をおく。冒険家たちは、筆やコトバではない生身で、そんなリアルな生の現実を表現する芸術家なのだろう。氷点下の、ほとんどあらゆる生き物たちの気配のない一層と静寂のきわだつ朝の雪原に、ふと、うさぎの足跡を目に留めると、からだにぽっとかすかな灯がともった。