2008-10-16

季節と風の贈りもの

青く高い空がどこまでも拡がる中、風は針葉樹独特の香りを運び、朝晩の寒暖差を持たせた大気は、樹々の葉っぱを日に日に鮮やかに彩らせる。待ちわびたそんな秋の季節到来の矢先、思いもかけなかった突然の来訪。お宿かげやまのお客様として度々足を運んでくれていた友人の妹さんご夫婦。初夏のハスカップが実をつけた頃他界した友人にそっくりの、初めてお会いする妹さんに彼女の面影が重なり夢をみていると同時に夢うつつの再会に嬉しさがこみ上げ増幅していく喜びに困惑した。旅の途中の少しの間にわざわざ探して立ち寄って下さったことに、彼女の思いがご家族や友人たちにきちんと伝わり理解され、そしてその思いが今も生きていることに確かな思いを抱く。ついこの前までの夏とも秋ともいえない中途半端な北の空の下の季節の変り目には、あまり明るいことを考えられないような面持ちになるが、秋の季節到来とともに予想をだにしなかった不意の来客の出来事は、この季節が好きだった彼女の計らいに思える。日頃から人の痛みや苦しみを吸い取ってしまうかのような性分だった彼女のお見舞いに行ったとき「(病気が)Gちゃん(彼女の夫)でなくて私で良かったと思うん。」とかみしめるように言っていたその時の声色と息遣いが耳の中で響いた。深まりゆく秋の風景の中、このうえない贅沢な気持ちに包まれながら、彼女が季節で、風で、そして愛であることを思う。


2008-09-06

ゆるりゆるり

今年はこころなしか初秋の気配が重たい。夏のエネルギーをいっぱいに受け、たじろぐことなく生のベクトルの方向に一目散に走り続けていた緑たちが行き場を失い、内面的にデリケートになっている印象。元気がなさそうに見える、またそれを気がかりにしているふうの緑たちに、「大丈夫、大丈夫」と声をかけるような気持ちで深呼吸する。生命力を少し緩めてもらったと思って、時の流れをゆるゆると感じるのもいい。そんなに生き急がなくても必ず、すっかり、本物の秋が巡ってくるのだから。時はたゆまなく、こともなく流れているから大丈夫。少しずつ葉っぱの色を変えゆっくりゆっくりと土に還っていきましょう。これからあとどのくらい時を重ねていくのか分からない、でもそう長くはない時の流れのなかで、自分の中のエネルギーの質が変容する時期に幾たびか、この緑たちに思いを馳せたちょっぴり強気な自分がいたことをきっと懐かしく思い出す時が来るに違いない。


2008-07-27

アイヌモシリ

晴れた夏の昼下がり、おにぎり、お茶とおやつ、釣り竿を持って釧路川源流、みどり橋まで自転車を走らせた。みどり橋から眺める水の風景は、ここを通りかかるたび、引き寄せられ、足を止めて、流れ行く水の光景と透明度の高さに耳と目ばかりだけでなくこころまでも奪われる。水との境目がなくなり、光も影も、過去も未来も、出会いも別れも、ひとつになって水の中に吸い込まれる。冷たい無機的な至福を突き抜けた先にそれらすべてを抱いて包み込む大地が「場」として在ること、土の匂いを思い出し、懐の大きさに安堵感を覚えるとき同時に「アイヌモシリ」というコトバを想起する。アイヌ語で「世界」の意味であり、「人が住む場所」であり、さらに語源的に分解してみると「人の住む静かな穏やかな土地」という意味になるらしい。すーっと耳に馴染む心地良い響きを持つこのコトバが故なのかアイヌモシリをそう遠くない昔に侵略と搾取、抑圧と迫害、ジェノサイドで人々に対してもコトバの意味においても深く傷つけ踏みにじり汚したことも併せて思い起こしてしまう。そして、こころに飛んでくるような力を持つそんなコトバを持つ先住民たちの精神性の高さに感じ入る。もうひとつ「ヤイコシラムスイェ」。直訳すると「自分自身に対して自分の心を揺らす」ということから「考える」というアイヌ語。川辺で緑をさらさら揺らす風に吹かれ、夏の木漏れ日を眩しく見上げるようにして、アイヌモシリ・・・ヤイコシラムスイェ・・・と口ずさむ。